番長
こんにちは、とむです。
罪悪感を抱いたり、後悔したりしてしまうことは、誰にでもあります。
そんな時に知ってほしいことが、罪悪感や後悔は
- 自分を苦しめる猛毒ではなく
- 「自分を大切に生きたい」という純粋な心の声
だということです。
ボクのなかに、常日頃、心がけていることがいくつかあって、その1つが後味を大切に生きること。
面白いことに、人が幸せに生きようとするとき
- 『今何をするか』ばかりに気をとられて
- 『終わった後にどう感じるか』は蔑ろにされがち
けれど、自分を大切に生きるには
- いま何をするかよりも
- 終わった後にどう感じるか
に気を付けた方が、ずっとずっと簡単です。
もしいま、自分のしてしまったことに後味の悪い罪悪感を抱えているなら、できることはただ1つ。
- 自分がどんなことに後味が悪いと感じるのか学んで
- 後味の悪い行動を減らして
- 後味の良い行動を増やしていくこと
死を学ぶから、生を学べるのと同じで、自分を大切に生きられなかったから、自分を大切に生きることを学べる。
つまりは、罪悪感を抱いていようと、後悔していようと、自己嫌悪にみまわれていようと、大丈夫ということです。
1 罪悪感や後悔は自分を大切に生きる道しるべ
罪悪感や後悔は
自分を大切に生きるための道しるべ
のようなものです
人の心って、すごく純粋なものだとボクは思う。
自分を大切にできていないときは、「罪悪感」や「後悔」として教えてくれる
自分を大切にできているときは、「充実感」や「感謝」として教えてくれる
常に心の反応は、よりよく生きるための、方向性を示してくれます。
だから、罪悪感を抱くことがあっても、「ああ、これをしたら自分は罪悪感を感じるんだ」と学べばいい。
東南アジア一周の旅をしているときに、ボクは一度だけ大きな罪悪感を感じたことがありました。
詳しくは書きませんが、「本当はよくない」と自分で感じているにも関わらず、「まあ大丈夫だろう」とタカをくくり、人間関係のトラブルに巻き込まれた。
その結果、彼とは言い争いになって、
ここには書けないような言葉を使って罵り合うまで発展した。
どちらが悪いとは言えない状況だったのだけれど、ボクも彼も傷を負ったことは確かでした。
とにかくその日は、後味が悪くて、後悔の気持ちでいっぱいだった。
罪悪感というのは、自分を大切にしなかったことへの罪。
「自分」を生きなかったことの罪。
罪を償わないまま、罪を重ね続ければ、いずれ死刑になる。
どんどん「自分」を生きられなくなっていく。
罪悪感という名の罪を償うには
罪から学び、更生して、自分を大切に生きるしかない
のだと思う。
後悔して、自分を責めるのはここでおしまい。
それは、罪を償うことにはならないから。
いまできることは1つだけ。
- 自分がどんなことに罪悪感を抱くのか学んで
- 後味の悪い(自分を粗末にする)行動を減らして
- 後味の良い行動(自分を大切にする)行動を増やしていくこと
2 罪悪感や後悔は、自己善に反したときに生まれる
罪悪感や後悔は
自己善に反したとき
に生まれる
人にはおのおの、『自己善』というものがある。
- 毎朝、毎晩、絶対に歯を磨く
- 横断歩道を渡るときは絶対に信号を守る
- 人に嘘をつかない
- 浮気、不倫はしない
簡単にいえば、道徳のようなもの。
道徳というと、すごく堅くて、クソ真面目に聞こえるから、
世間には「自由」を謳って、自己善に反した行動を取る人もいる。
愛のない性行為なんてのは、代表的な例。
もちろん人によって自己善は違うから、行為だけを取り上げて言及することはできない。
けれど
- 「本当はよくない」と心のどこかで違和感をおぼえていながら
- 「みんなやってるから」「今回はいっか」と自己善に反した行動をとれば
罪悪感を背負った、後味の悪い生き方になる。
「街のゴミを拾おう」とか「近所の人に挨拶をしよう」とか、決してそういうことを言っているわけじゃない。
大事なことは結局『自分がどう感じているのか』だとボクは思う。
周りがなんと言おうと、何をしていようと、自分はどう感じるのか。自分はどうしたいのか。自分はどう生きたいのか。
ボク自身、旅のいざこざを通じて学んだ。
何をしたら自分が傷ついて、どう生きれば自分を大切にできるか。
罪悪感や後悔は
- 「もうこんな生き方はしたくない」という心の悲鳴であり
- 「もっと自分を大切に生きたい」という純粋な声だ
ボクは周りにダサいと思われようと、堅苦しいと思われようと、自分の善を大事に生きようと思う。
それが、自分を大切にする生き方だから。
3 罪悪感や後悔から学ぶしかない
いま自分のしていることは、後味の良いこと?
いま自分のしていることは、後味の悪いこと?
こんな風に、ボクが後味の良し悪しを大切にし始めたのが3年前のこと。
冒頭でも書いたように、常日頃「いま自分のしている行動は、自分を大切にできているか」を考えながら生きている。
けれど、ボクは弱い人間だ。
先ほどの旅の例のように、3年たったいまでも、罪悪感を得ることや、後悔をして後味が悪くなることもある。
正直悔しい。
自分を大切にできなかったこと、誰かを傷つけてしまったこと。
ただ胸が苦しくなったとしても、逃れようとするのではなく、心の声を聞き続けて学ぶしかない。
「ああ、自分はこれをしたから、悔しがっているのか」
「本当はあんなことしたくなかったんだ。本当はもっとこうしたかったんだ。」
人の心は、すごく純粋だ。
どれだけ世界が変わろうと、歳を重ねようと、自己善は絶対的な存在として、自分の中にあり続ける。
同じ過ちを繰り返そうと、ここに立ち戻ればいいと思う。
そして学びなおせばいい。
それを繰り返していくうちに、自分の大切にしたいことに堂々と生きていける気がする。
……コメントし過ぎてうるさくはないかな…と気になりつつ(><)
なんだか今日のブログは凄くとむさんの『想い』がこもったものに感じました!
いつもは、なんとなく客観的視線のように感じていて、
でも今日のはとむさんの叫びのような…
心境の変化でしょうか?
…はたまた読んでいるわたしの変化なのかな…。
とむさん、お元気ですか?(><)
Machikoさん
いつもコメントありがとうございます!
こうしてやり取りができること、心より嬉しく思います^^
「叫び」ですか…!
Machikoさんのおっしゃるとおり、旅をする前とした後で、心境の変化はあったのだと思います。
よく昔の自分の書いた文章を読み返していると、「え、これ本当に自分が書いたの!?」と感じるくらい、雰囲気の違う文体に出会うことがあります。
ロジックを主体とした文章、感性を主体に書いた文章、一人哲学している文章や、自己救済に走った文章、結論をおいた文章、結論があいまいな文章、本当に色んなものがあります。
文章は、その時の自分が学んでいること、置かれている環境、心理状態などが如実に表れるものですね。
人は日々変化し、日々生まれ変わるものなのだと改めて感じます。
随分と前のことですが、ブログ開設当初から読んでくれていた友人に、Machikoさんと同じことを言われたことがあります。
「今日のブログいい!」と伝えてくれた彼に、その文脈を問うと、想いがこもっている、強い、とだけ伝えてくれました。
誰かの心に響く文章を書くことって楽しい….そんなことを感じていました。
こうしてMachikoさんからコメントをいただくと、誰かの心に届いているのかなと安心しつつ、自分は読者の方から見守られているんだな~と、温かい気持ちがこみあげてきます。
ボク自身も、感情が浮き沈みし、傷つくときは思いっきり傷つく、一人の人間です。
今後も学び続け、変化していくのだと思います。
けれどそれでいいのかなって思っています。
日々学び、変化し、一瞬一瞬生まれ変わる。
それが人間の自然な生き方なのだろうと。
どの記事も、書き終わった時には全身脱力するくらい想いを流し込むように書いています(笑)
今後も、ブログを楽しみにしてくれたら嬉しいです^^
いつもありがとう!
とむ