休みは終わった。労働がはじまる。休み明けの労働が憂鬱だ。これ即ち、中村天風先生の言葉を借りれば、心が後ろを向いているのであり、心を粗末に扱っているのである。肩を落とし、ケツを締め、下丹田に気を集中し、肺にたまった息をすべて吐き出し、ゆっくりと深く息を吸い込む。これを5,6回も繰り返せば、気分はいくらかましになる。そうして、綺麗になった心に、次の誓いの言葉を響かせるのだ。
「今日一日 怒らず 恐れず 悲しまず 正直 親切 愉快に 力と 勇気と 信念とをもって 自己の人生に対する責務を果たし 恒に平和と愛を失わざる 立派な人間として生きることを 厳かに誓います」
天風先生の哲学は気高い。これを実践すれば、立派な人間になるのだろうと直感する。しかし、私にとって天風先生の言葉は一つの道徳に過ぎなくなってしまった。「今日一日 怒らず 恐れず 悲しまず・・・」と声に出しながら、こんな立派なことは自分にはできっこないのだと知っている。心を怒らせないことも、恐れさせないことも、悲しませないことも、正直、親切、愉快であることも、そんな完璧な日は一度だってない。現実は、悲しむばかりで、気高い言葉を前に、跳ね返されては堕落するばかりである。
天風先生からは、道徳と修身を感じる。自己を律した人間は、立派に社会に貢献する人間として、幸せに向かっていく。しかし、やっぱりこれは道徳なのである。立派であり、社会に褒められることであるが、生命救済において道徳は破るためにある。天風先生の哲学が本当に活きる人間は、堕ちるところまで堕ち、生命の感触を掴んだ人間であって、それ以外は、道徳の中に飲み込まれて、善人に染まるだけであるような気がする。
結果として、天風先生の天に通ずる言葉を前にしても、罰当たりに仕事をサボって、野原で寝っ転がっていたいと想像する。こうした堕落が人間の本性なら、堕ちるのは時間の問題かもしれない。やめたいやめたいと思っているものは、遅かれ早かれ、やめる運命にあるのではないか。それにしても、堕落とは本当につまらないものだ。誰かにありがとうと感謝されることはなく、社会に背き、神に背き、孤独となるのだ。感謝すれば心は綺麗になるというように、道徳が心を綺麗にするものなら、堕落は心を荒ませるものなんだろう。私は堕落を思うとき、心がどんどんすさんでいくのを感じる。
天まで引っ張り上げてくれる存在に憧れながら、一方で地の底まで引きずり堕としてくれる存在を欲している。この生命が、そこまでの不幸に耐えられるか分からないが、一度堕ちはじめた生命は、堕ちるところまで堕ちなければ、天への道はないのかもしれない。
唯一の希望は、坂口安吾の堕落論である。
「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」
やはりいつかは、武士道をあみだし、天の道を歩みたいと願う。この願いを失わないかぎり、堕落の悪に染まっても、深い深い所では、運命の神の慈悲を受けられるような気がするのだ。
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