数日間の苦しみがようやく去り、爽やかな朝がやってきた。昨晩の雨でぬれた大地が、太陽で美しく輝いている。
苦しみを散々吐露して、見苦しい姿を残してしまった。苦難は去ったといっても、安らぎは束の間であることは間違いない。今日の晩には次の苦しみで死にそうになっている可能性も大いにあるのだし、そうでなくちゃならないのかもしれない。魂の救済に生きる以上、苦しみは避けては通れず、この苦しみを自己の糧にするから、精神修養は行われる。
天気に例えれば、人生は嵐ばかりかもしれないが、こうしてたまに、爽やかな風を頬で気持ち良く感じることができれば、それで十分だとも思う。この爽やかな風を人間から取り上げてしまうほど、神は無慈悲ではなかろう。
魂の高潔は、幻像的で脆い。脆さの中、堕落に抗いつづけるのは、死にたくなるほどの苦痛を伴うのだ。そして苦痛に耐えきれなくなったとき、堕落するか、堕落を嫌って高潔のまま死ぬかの二者択一を迫られる。https://t.co/1InSY3yOyY
— 内田知弥 (@tomtombread) March 23, 2023
昨日、坂口安吾の「堕落論」を引用して、人間は苦痛に耐えきれないとき、堕落するか、堕落を嫌って高潔のまま死ぬかの二者択一だと書いた。
今回、意図的でなかったものの、私は堕落を選んだことになる。毒で悶え苦しむ体に、さらに毒を注入すれば、肉体は死んでしまうことを本能が悟った。事実、昨日は、朝起きてから2時間、布団から抜け出せず、日中もぼーっと雨が降る外を眺めるばかりで、昼間も身体が眠く、寝ることしかできず、読書はほとんどできなかった。これ以上、魂の毒を食らえば本当に死にかねないと、本能があらゆる行動を制止した。結果、生活の秩序は乱れ、堕落した。
今、死なずに生きているということが、堕落を選んだ何よりの証拠になっている。
しかし、こんな堕落は、真の堕落でないことは承知である。ドストエフスキーの描く堕落と比べれば、堕落とも呼ぶにも相応しくないかもしれない。「罪と罰」の、ラスコーリニコフは老婆を殺め、家族を捨てることを選んだのだから。堕落するにも強さがいる。
もちろん、堕ちるために堕ちることは、堕落とは言わない。道徳があるからこそ、堕落にも人間の美が生まれるのだし、道徳なき堕落は、ただの放縦で、犬畜生で、非道な行いで、人間の美とは無縁なものであると思う。
苦しくて、どうしようもなくて、堕ちざるを得ないから「堕落」なのであって、ここには必ず、道徳の抵抗がなければならない。
そんなことを思う晩、西田幾多郎の「善の研究」に、ドンピシャな言葉を見つけた。
「罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない。」
「罪はにくむべき者である、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しきものもない。」
堕落は罪である。しかし、堕落せざるを得ないのが人間の弱さだとしたら、人間は罪の存在である。(キリスト教でいう原罪)
罪の意識がない堕落は、美しさはない。それが今日、俗世の多くから、美を感じられない理由だろう。皆が善人となれば、美しさは消える。
堕落は、悶え苦しむことの発露であるかぎり、正しい堕落は、本当は求めるものではなく、高潔な毒を食らい続けていれば、結果として生まれるものなんだろう。死なない道を選ぶかぎり、堕ちることは避けられないのだから、毒を食らった苦悩の末に、とことん堕ちることを厭わない、覚悟だけが求められている。
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