どこに行っても、家族連れの客がにぎわうのをみると、お盆なのだなと感じる。家族連れの面々はとても幸せそうで、やっぱり日本人の心の底には家族の温もりが流れていると感じる。私は実家に帰ることもなく、一人森にこもって家づくりに奮闘している。祖父母の墓参りも何年も行けておらず、伝統的な慣習をおろそかにしていることに不義理を感じるが、帰れないのなら、せめて先祖の霊魂を拝む時間はつくりたいと思うのである。
教会をもたない日本人は、自分がひとりであると思うとき、天から孤立する。父母があり、兄弟があり、親戚があり、祖父母とさらに遠い先祖があり、天皇を通して天と繋がるのである。民族的には、皆が兄弟のようなものであり、現代はすっかり信仰は失われたものの、家族の時間をほんとうに大事にしているかぎり、間接的にその養分は得られるのだと思う。逆に、家族というものの信仰が失われたとき、言い方は悪いが、物質としてしか帰ることができなくなってしまうのである。
私は何年も湧き水で生活していて、全国あちこちの湧き水をくんできた。畏れ多いことに、いま生活している森の近くにある湧き水は、明治天皇がこの地を行幸した際に、お茶を飲んだとされる湧き水である。甲州街道にある、今は空き家となった古いお茶屋さんのとなりにあるこの湧き水には、”明治天皇行幸の水”という記念碑がたてられている。私はここで水をくむたびに、明治天皇が行幸した際の光景を想像し、同じ水を汲んでいることに畏れ多さと誇りを感じながら、同時に「家族」というものの温もりに触れているように思う。
つい2,3日前の早朝、いつものようにここに水を汲みにくると、小学生くらいの少年が、お茶屋さんの長椅子に座っていた。私がおはようと言うと、少年もおはようと挨拶をかえす。それから特に話すこともなく、静かに水を汲みながら、お互い朝の気持ちの良い風を感じていた。帰り際に、夏休みはどうだと聞くと、化石を掘りに行ったと話を聞かせてくれた。少年も私に、どこから来たのだと聞き返し、私は、いまはこの近くに住んでいるのだと答えた。
たわいもない時間であったが、確かに私は、少年との時間に「家族」を感じていた。少年がいて、私がいる。その先、遥か天の彼方に、明治天皇がおいでになるようであった。家族とは何も、一親等や二親等のような血族にかぎったものではない。信仰のもとでは、家族はとても広いものとなり、我々の心に穏やかな清流を流してくれるものである。
そのような温かい国に生きているのである。
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