「愛とは何か」を問う資格さえない。[249/1000]

ドストエフスキー「罪と罰」を読了した。下巻が中々手に入らず、その間に上巻と中巻は2度ずつ。物語としてはようやくすべての戦いを終えられたようだけれど、あと10回読んでも魂の真髄に辿り着けるだろうか。最後の最後に、本物の愛を見せられたようだった。愛とは何かを問うて求め続けてきたけれど、求めて手に入る愛など欲望に堕ちた偽物の愛にしかならないことを感じた。愛は血塗れになりながら人間として生き、苦悩の末に落ちる涙に、自ずと生じるものであって、あくまで結果にすぎないのではないか。愛とは何かなど、考えることも、求めることも、本当は必要はなくて、人間として生き、苦しみを背負い生きていくことに、すべてを奉げればいいような気がした。愛という宇宙でもっとも崇高なものは、頭で考えて、肉体で渇望しているかぎり、俗物にしかならないのだと思う。魂を救済し、人間として生き、苦悩と呻吟を繰り返すうちに、結果としてそこにあるものではないか。

 

これが、つまり、十字架を負うことのシンボルなのかい、へ!へ!まるでこれまでの苦しみ方がたりてなかったみたいだな!糸杉の十字架っていうのは、つまり一般民衆の十字架なんだな。銅のは、リザヴェータのか、自分がかけるんだね。見せてくれるかい?すると、これが彼女の首にかかっていたんだね・・・・・・あのとき?ぼくは、これと似たような二つの十字架を知っているよ。銀のと、小さな聖像だった。ぼくはそれをあのとき、婆さんの胸に投げ捨ててきたんだ。あれがいまあるとよかったな。ほんとに、あれをぼくがかければよかったんだ・・・・・・それはそうと、口から出まかせばかり言って、用事を忘れているな。なんだかぼんやりしている!いいかい、ソーニャ、ぼくが来たのはね、ほかでもない、きみにあらかじめ言っておこう、きみに知っておいてもらおうと思ってなんだよ・・・・・・さあ、これですんだ・・・・・・ぼくはそれだけのために来たんだから。でも、ぼくが行くようにというのは、きみ自身が望んだことだし、これでいよいよぼくが監獄にはいるようになれば、きみの希望も実現するわけさ。おや、何を泣いているんだ?きみもやっぱりか?やめてくれ、たくさんだ。ああ、これがぼくにはつらいんだよ!

ドストエフスキー「罪と罰」(岩波文庫) p354

 

なぜ苦しむのか。なぜ自殺するのか。なぜ大地に接吻するのか。なぜ怒鳴るのか。なぜ狂うのか。有難いことに問いだらけである。愛とは何か、というもっとも崇高な問いは、これらの問いを突き抜けた先でしか考える資格さえない気がしている。動物的な人間が愛を渇望しても、地上的な欲望にしかならないことは想像に容易い。愛は宇宙のものだからだ。魂を救済するための問いが先にある。自己犠牲を問い、苦しみを問い、地獄を問い、怒りを問い、人間として生きて、ようやく愛の前に立てるのではないか。それも自覚されるものではなく、自ずと生じているものではないか。そんな風に思う。愛とは何かは問わなくていい。もちろん大きな部分では愛に憧れつづけるのだけれども、得ようとして得られるものではないし、得ようとして得られるものは、前述したような俗物にすぎない。魂を救済し、苦悩し、魂を生き切ることに生命を奉げれば、自ずと愛は自分を貫く。もちろんこの自分というのも、肉体ではなく魂を指す。そんなものじゃないかな。憧れることしかできないんじゃないかな。

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