人間が万物の霊長であるというのも、人間が自分で付けたのだから、結局、我田引水ではないか。犬や猫や猿が寄り合って人間が一番優れていそうだから、万物の霊長に推薦しようといったのならまだしも、人間が勝手に決めただけのことではないか。また、名ばかりは大変結構だが、見るかぎり、知るかぎり、他人はいざ知らず、自分は今まで万物の霊長たるありがたい思いをしたことは一度もない。いつも人生に味わうのは不幸な面ばかり。万物の霊長どころか、人間というものは、この世の中にさいなまれ、苦しみにきたのではないか、と思ったのである。
中村天風. 運命を拓く (講談社文庫)
心が消極的になるほど苦しみばかりが強調されて、人間として生まれたことが、苦行であるかのような気持ちになる。若かりし頃の中村天風も例外ではなかったようで、インドの山奥で修行中の際、上のような人間に生まれた不幸を師に伝えたところ「罰当たりめ」と殴られて引きずりまわされたという。
来世は猫に生まれて自由きままに生きたいと言う人間もいるくらいである。人間だけが背負う苦しみに人間をやめたいとまでは言わずとも、人間として生まれてこなければこんな苦しみを味わうこともなかったのに、と悲痛に嘆いたことのある人間は少なくないように思う。
ガソリンを入れれば車は走り始めるのかと言われればそうではなく、ガソリンに着火するための大元のエネルギーが必要である。人もまた、空気や水や食料があれば生きられるのかと言われればそうではなく、それらを活かす大元のエネルギーを必要とする。
一般的にそれは魂と言われる。中村天風はこれを宇宙霊と言った。宇宙のすべてを創造したエネルギーが、神経器官を通じて肉体で作用することで、心が生まれ、空気や水や食料も、命を活かす意味を初めて持つ。人間が万物の霊長であるのは、宇宙根本主体である宇宙霊と自由に結合し得る資格を持っているからだと言う。
人間と動物の違うことを、超葉隠論を書いた執行草舟も言っていた。動物は水平的にしか生きられない存在であるが、人間は垂直的にも生きられる存在である。武士が忠義や名誉のために自分を死なせることを選んだように、宇宙エネルギー(執行草舟は暗黒流体といった)と垂直に繋がる力を持つ人間は、その純粋のために肉体を死なせることを選ぶことができる。自分の命以上のもののために、自分を死なせることができる。この垂直性が人間が霊長たる所以だと言った。
心というものは、人間の生命の本質であり、絶対に眼に見えない霊魂という気の働きに対する名称である。気の働きがないかぎり心という現象は生じてこない。さらにわかりやすくいえば、心というものは、霊魂という気の働きを行なうための存在であり、心が思ったり考えたりすることによって霊魂の活動が表現される。そして心の行なう思考は、すべて個人の命の原動力となっている霊魂を通じて、その霊の本源たる〝宇宙霊〟に通じている。
中村天風. 運命を拓く (講談社文庫)
心とは何か、という問いも漠然としたまま放置してきた。魂と肉体が衝突するときにその摩擦の中に生じるものである、と昨冬瞑想をしているときは腑に落としていた。中村天風は、霊魂という気の働きに対する名称だと言った。大きな宇宙エネルギーが体内に流れ込み、肉体上で作用するときに心は生まれる。目に見えず実測不能なものである以上は、科学の領域を超えているので、実体験の中から理にかなっているものを信じられたい。
今ここで感じていることも、考えていることも、肉体によって個の制限は受けるものの、その大元を辿れば万物を創造した大きな宇宙エネルギーであり、まるで使者を遣わすかのように、人間として生かされていると考えることもできる。
思考作用の誦句
我は今、宇宙霊の中にいる。
我はまた、霊智の力とともにいる。
そもそも宇宙霊なるものこそは、万物の一切をより良く作り更えることに、常に公平なる態度を採る。
そして、人間の正しい心、勇気ある心、明るい心、朗らかな心という、積極的の心持ちで思考した事柄にのみ、その建設的なる全能の力を注ぎかける。しかりしこうして、かくのごとくにしてその力を受け入れしきものこそは、またまさしく力そのものになり得るのである。
中村天風. 運命を拓く (講談社文庫)
昨冬は、自然の法を身とすることを一つのテーマとしていた。武士道に影響を受けて、自分の中心にある自分を死なせて、天のために生きるとはなんぞやということを孤独の瞑想で考えてきた。中村天風のこの誦句は、法を身とすることに通じているように思った。宇宙霊も自然の法も言葉の違いにすぎず、指すものは同じである。力を受け入れることで、力そのものになり得る。この力を受け入れるための心持ちを説いたものが、中村天風が教える積極精神であった。探求をつづける。
精神修養 #115 (2h/237h)
どこまでが考えて、どこからが考えさせられているのか。どこまでが動いて、どこからが動かされているのか。一度、瞑想の基本に立ち返りたい。自然の法は、自然の中にある。自己と法を隔てる雑念に気づいていく。
・元気がなくなっていたが、関ヶ原の山奥に来たおかげか、瞑想に集中でき、少し元気になった
・宇宙の気が体内に入ってくるのを感じていた。中村天風のいう宇宙霊、執行草舟のいう暗黒流体。
・愛も友情も誠も勇も、人間が理解可能の形に名前をつけたにすぎず、大きな宇宙霊(この言葉を採用する)はミクスチャーなエネルギーだけが存在するのだろう
・静寂な心に、エネルギーが流入するから、雑念に追われているときは今日のように死にたくなるのだろうか。
・水の中を泳ぐ魚が水の中にいることに気づけないように、人間もまた自然の法の中にすでに生きていることに気づきにくい。
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