傷つくことを過剰に恐れて、ドライになりすぎていないか[61/1000]

長野県小県郡(ちいさがたぐん)にいる。

ちゃんとお日様は照っているのに、日陰にいると風はひんやりとして気持ちがいい。この気候を初めて味わったときから、長野が大好きだ。

 

なんとなく頭がまだクラクラしてて、いまいち身体はパッとしないが、雲一つない青空は、これ以上ないくらい気持ちをスカッとさせてくれる。

今日も、日中は塩が必要になるなぁ~。暑さで、身体をだるくしてしまっている皆さまは、ぜひ塩をなめてくださいね。

 

 

私は身近な人には、特に健康でいてほしいということもあって、自分の知ってるあれこれを、色々教えたくなってしまう。

お節介が行き過ぎると、ただのうざいヤツになってしまうと思って、つい遠慮しがちになるが、「はいはい分かった分かった」と笑いながら聞き流してもらえるくらいのお節介な関係は、いい感じだなと思う。

 

ウェットな人間関係を過剰に拒むようになれば、ドライさもまた過剰になる。

相手との違いを受け入れるとか、相手の価値観を尊重するとか、自分と他人の課題に一線を引くとか、言いたいことはわかるけど、「排除」とも似ているような気がする。

 

それは、ちょうど消毒液だらけの社会に似ているかもしれない。雑菌を片っ端から排除はし、清潔感を保っているかもしれないが、何か違和感をおぼえる。

傷つくことに過剰反応しすぎれば、自他に綺麗な境界線を引くようになって、相手に踏み込める人はどんどん少なくなる。

 

私は綺麗に住み分けられた世界じゃなくて、もっと自分と他人が入り混じったような、体温が交差するような世界に生きてみたい。

 

 

先日、福岡滞在中、お節介を焼かせてもらった。

おそるおそる、健康について助言しようとする私に、Cさんは寛大に「お節介になってもいい」と言ってくださったので、私は嬉しくなって、あれやこれ健康について口出ししまくった。

 

Cさんは朝、青汁を牛乳とハチミツで割って飲んでいるらしいので、牛乳もハチミツもオートファジーを阻害するからお水で割るだけにしておいたほうがいいと伝えた。

それから寝ている間に、汗で塩が抜けてるから、味噌汁を飲まないならちゃんと塩を舐めたほうがいいとか、農薬がついてるから、スーパーの野菜はもっとちゃんと洗ったほうがいい、じゃないと身体が冷えて子供ができにくい身体になるとか、食品を買う時は、裏側の成分表示をちゃんと見て買う習慣をつけることとか、病気のときは胃の消化にエネルギーを使いたくないから、お腹がなるまで何も食べないこととか・・・etc.

 

あれやこれや、色々とお節介を焼き、おそるおそるCさんに「うざいですか?」と聞いてみると、「いや全然、むしろ勉強になる」とお返事がきたので安心した。

逆に私は色んなことを勝手に懸念していたが、うざかったら「うざい」と言われてそれで終わりだなと思った。

 

Cさんはうざいとは言わなかったが、私はこんなヤツがそばにいたら、うざくてたまらんだろうなと思った。

でも、それが好きだという信念が言動の裏にあるなら、私はそんなヤツを憎めないような気がしている。

 

 

私が福岡を離れる頃には、Cさんが日常的に塩を舐めるようになっていた。

自分がいいと信じるものを、体験をとおして、誰かにいいと信じてもらえたときは、お節介魂が歓喜をあげて喜んでいる。

 

入口はお節介だったとしても、結果的に、自分の生活がいい方向に動いていくなら、うざがられてもお節介は悪くないね。

 

皆さんは、人にお節介を焼いてしまうようなことはありますでしょうか?

ちょっと勇気出して、お節介焼いてみてはどうでしょう?

 

では今日はこの辺りで!

see you tomorrow!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です