毎日、死にたくなってるのを見ると、もう本当に病気なんじゃないかと疑いたくなるし、実際、社会から見たら病気みたいなもんだろう。人間として生きようとする魂が、地上とに不和を生むかぎり、心に苦しみが生じることはやむを得ないのだと思う。しかし、魂を挫折させるつもりは微塵もないし、結果、道半ばで死ぬことになっても、私の生命は弱かったというだけで、それが運命なのだから仕方がない。自然の淘汰が起きるから苦しいのだし、これに抗ってこそ、人間生命は活きると思う。
苦しくて死にたいなど、罰当たりな言葉であることは承知だし、自分が弱いだけで、ただ情けなく、恥を知らねばならないけど、それでもやはり、苦しくて死にたくなるのなら、それについて文句を言っても仕方なく、黙ってこの自然淘汰に毒され、自己の体内の根源から生命の力を絞り出して立ち向かうしかない。何度も毒を食らっては毒を食い尽くし、強くなっていくしか他に道がない。
涸(か)れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。
(旧約聖書, 詩編42より)
旧約聖書の詩編42が心に染みる。
苦しみが、自己を鍛錬する糧になる。糧は涙なくしてありえない。自己を鍛え上げた最後に要求されるのは、行動による証明で、臆病な自分を超えて、肉体行動で地上を切り拓いていかないかぎりは、精神が強くなった証は何も残らない。「お前の神はどこにいる」と人々は問うが、神のしるしは、行動の中にしかないのだと思う。それを支えるのは、魂の潤いを求め苦しむ今日の精神。
苦しくていい。苦しくなってもいいから、何度だってこの苦しみを食い尽くして、自己の生命に変換していくしかない。死にたくなるほど、生命は突き破ろうとしているのだし、この悪魔の力をもったまま突き破っていくのだと信じる。
昨日と同じで、今日必要な言葉は、
おい、やられてんじゃねえ!しっかりしろ!元気出せ!そして今日を生き切って、誇らしげな気持ちでうまい酒を飲もうぜ!情けねえ顔してんじゃねえ。せっかくのいい面が台無しだぜ。さあ今日も戦いに出よう!
悪魔は心を貪って、我を狂気へと導く。
死ぬか死なんか崖の淵。胸に刃を突き立てて。
ああ狂ってる、狂ってる。この世はなんておぞましい。
虚無のすべてを飲み込んで、天に誓いを忘れたか。
この世はやるかやられるか。戦わずして誇りなし。https://t.co/NEN8AsX57I— 内田知弥 (@tomtombread) March 19, 2023
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