今年の夏は、百姓のもとで世話になったが、霜が降りる時分から畑の仕事はなくなっていく。冬を越せるか心配した農夫は、私に冬の仕事を紹介してくれた。氷餅といって、もち米を凍らして干して乾燥させたものをつくる仕事である。氷餅の製造は、鎌倉時代にはじまったと言われる。もともとは飢饉に対する備蓄食であったが、今日では、細かく削ったものを、雪のように和菓子にふりかけて、装飾として用いられることが多い。気温が氷点下10度近くまで下がらないと、もち米は凍らないため、寒い時期限定の仕事であるが、家づくりで財布がすっからかんになっている私には、数万円の収入でも十分な戦力である。
思えばこの一年、畑で働きはじめてから、私の仕事観はがらりと変わってしまった。資本家や社長、上司を主とするのではなく、自然を主とする畑では、仕事の内容も、人間関係も、全部が直接的で素朴である。もちろん雇われである以上、人間関係にも上下関係は存在するが、自然という圧倒的な存在を前にして、人間は団結しているのだ。日照りの苦しみも、雨にずぶ濡れになる苦しさも、秋雨の寒さも、皆が知っているのだから、傲慢に人を傷つけるような言動は慎むべきだと分かる。
序列が多く、人間関係が複雑化した会社では、失敗して上司に怒られたくないという恐怖心がどこかしら存在していることも少なくない。畑には、仕事と直接関係のない、二次的なしがらみは皆無である。労働そのものの苦しみはある。だが、労働の苦しみは、必然の対価でもあり、自分がその仕事を選んだ以上は、耐えて然るべきものである。
「あなたでよかった」と言われるような、人間個人が重宝される仕事ではなく、どちらかというと、労働力を提供する、替えのきく労働者にすぎない。だが、前者が勝っているとずっと信じてきた私は、むしろ自我から解放された後者に、生命の蘇りを感じるのである。社会的には、価値がないと思われることだが、一労働者として懸命に働くほど、生命は賦活していくのである。
2024.12.27