花を探しに散歩しないか[347/1000]

人間には2つの欲求があると思う。

1つは、灼熱の砂漠を汗だくになりながら彷徨いつづけ、喉が渇いた末に砂の中にぶっ倒れ、そのまま干からびるように死にたいという欲求である。この欲求は、冒険の欲求であり、自己を破壊したいという欲求であり、女々しさの源となっている心のすべての湿っぽさを蒸発させたいという欲求である。この欲求は死に向かう。

もう1つは、世界中の人間と繋がりたいという欲求である。天から降り注ぐ雨がひび割れた大地に注がれるように、渇いた心を永遠に潤したいというものである。愛を欲し、再生を欲し、創造を欲し、生に向かっていく。

 

昨日は、この矛盾に耐え切れなくなって、町を歩いた。真の孤独と、愛を欲しながら、瞑想に耽るように。

ずっとやりたいことがある。それは、鹿児島から北海道まで、徒歩で横断するというものだ。私はここに疑似的な砂漠を描き、偶発的な出会いのオアシスを想像している。想像してしまったからには、遅かれ早かれやる運命にあるだろう。

 

死ぬにも、生きるにも力がいる。世界中の人間と繋がりたいという欲求を抱えながら、どうしても一人を選ぶのは弱さだろうか。蟻は怠け者と働き者が、2対8の割合で存在する。その2の方のグループを取り出したとしても、そこでも怠け者と働き者は2対8に分かれる。人間という種にも、延々と集団を避けて、2(孤独)になりつづける個体もあるような気がする。社会から弾かれた人間同士が集まっても、そこに生まれた新しい社会からさらに孤立する。しかし、これもきっと繰り返していけば、いつかは8となって、人の和に溶け込む瞬間も訪れるかもしれない。何度もぶつかっていくしかない。

 

生身の人間と会いたい。言葉は少なくていい。ただ静かに波が打つのを眺め、森の音楽を聴いていたい。散歩のなかで、庭に花を植える家が少なくないことを知った。ここも、あそこも、あっちも、名前も知らない花たちが、丁寧に植えられていた。こんなにも寂しさを感じる人間がいて、こんなにも美しさを求める人間がいるのだと、その事実に感動していた。可愛らしい切り株をつかったオブジェに、不器用にビスを打ち込んだ跡を見ると、ここにも下手くそなりに、がんばってる人間がいるのだと勇気をもらった。心の豊かな人間は、日本にはたくさんいる。

 

昨日紹介した高野雅夫先生は、常識と当たり前とお金の世界を「日本国」のレイヤーと言った。

「日本国」のレイヤーは、生きることがすべてで、死んだら終わりであるから、幸せや、繋がりなど、生きる方向ばかりに向かいやすい。その中で、破壊の欲求を抱える自分を知れば、自己を異常だとか悪い人間だとか軽蔑してしまうかもしれない。しかし、これは生命的なものである。

為さなくちゃならないことがあるのに為していないとか、生命の燃焼を阻害するものがあって、そいつを壊さなきゃ、死ぬにも死にきれず成仏できないことを感じている。その幽霊のようなものを殺すとき、日本国のレイヤーから生命を救出して、独自のレイヤーが作られていく。

突き詰めれば、自然への殉教のようなものだと思う。自然に向かって生命が清々しく死んでいくために為していく。生命は生きることに必死になりながらも、大きなところでは死に向かいたい。

 

花探しの散歩はまだつづく。

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