道徳の鳥かごを突き破り、自由な大空へ飛び立たないか。ありきたりな例えであるが、教条化した道徳は、本当に鳥かごそのものである。知らぬ間に自分を束縛し、秩序正しく生きる善良な市民となり、悪事をなさない代わりに、どこにも飛び立てず、じめじめとみみっちくなるのである。当然、善良であることは素晴らしいことである。道徳を破る人間はクズ野郎だ。しかし、これだけは何度も繰り返し言おう。人間は道徳に従順となり、善人として生きることを目的としているわけではない。クズ野郎のつまらない人間となったとしても、宇宙より与えられたこの生命を全うし、燃焼するためにあるのである。
ここ最近、私は毎日、三島由紀夫を思い出す。三島由紀夫は、その大義を為すために自衛隊に決起を呼びかけた。総督を拘束し、市ヶ谷駐屯地に自衛官を集めさせ、そこで演説を行ったことは有名である。当時、私は生れていなかったが、初めてこの映像を見たときは、とんでもなく崇高なものに触れてしまった衝撃に震撼し、魂に刻み込むように三嶋由紀夫の肉声を耳に焼きつけた。三島由紀夫は、演説を行った後、その清純さに割腹自決をした。三島由紀夫は道徳家ではない。拘束も切腹も、道徳家や善人であるかぎりは絶対になすことができないものである。その点、三島由紀夫は悪党である。しかし、善悪の観念をこえて、人々が三島由紀夫に涙を流すのは、そこから滲み出るものが宇宙的なものであり、善悪よりもさらに高次元に存在する美であるからに他ならない。これが魂である。これが生命の燃焼である。ほんとうは、道徳や善悪など、現世のものにすぎず、永遠とは関係のないものである。むしろ、道徳に縛られることは現世に閉ざされることを意味し、魂までも失うのである。
道徳には、行動を抑制するものが多い。悪はいつも行動によって生じる。教条化した道徳に縛られた人間は、何をするにしても委縮してしまうのである。これをしてもいいのか、これを言ってもいいのかを、永遠と自己の内に反芻し、体が怯えて縮こまってしまうのである。
鳥かごを壊したあとは、地に堕するのか、天に飛び立つのか、はたまた鳥かごの安心に舞い戻るのかは、自分次第である。私は地に堕してもいいと思ってる。坂口安吾が「堕落論」でいうように、堕ちるにも強さがいる。もしそこまで堕ちる力があるなら、堕ちてみろと己にいいたい。しかし、絶対に鳥かごのなかだけには戻りたくないのである。あの大空に憧れを抱きつづけ、さあ、道徳を打ち破っていく。
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