黒澤明の「羅生門」の終盤で、ある男が放った言葉がずっと頭に残っている。「どいつもこいつも手前(てめえ)のことばかりだ。」そう言い放つ男は、羅生門に捨てられた赤ん坊を見つけると、赤ん坊をくるんだ着物を取ってしまい、持ち帰って金に換えようとする。
それを見た別の男たちは「お前は鬼か!」と罵るが、「そういうお前さんはどうなんだい?短刀を盗んだんじゃないのかい?」と追及され、何も言えなくなってしまう。
「どいつもこいつも手前のことばかりだ。」という言葉をよく思い出すのは、自分のことを手前(てめえ)という響きに心地良さを感じることもある。「私」が大事になりすぎて、行き過ぎればカワイ子ちゃんになる今の世界では、自分を「てめえ」と荒々しく乱暴に言うのは痛烈で、図々しく卑しい自分に、身の程を弁えさせられるような気持ちになる。
この言葉を放った人間も結局は自分のことしか考えていなかったように、「自分のことばかりだ」と誰かに言い放つとき、同じく自分も自分のことしか考えていない構図は、今日もよく目にする。あなたはあなたのことしか考えていないと恋人に迫る女も、あなたもあなたのことしか考えていないと男にしっぺ返しを食い、お互い様となる。
「どいつもこいつも手前のことばかりだ。」と思う時、そういうお前はどうなんだと問いかける。そして自分もまた手前のことばかりになっていたことを恥じて、今度は自分に「どいつもこいつも手前のことばかりだ」と言って戒める。そこまでがこの台詞を思うときのワンセット。
世界には呼吸がある。アスファルトで固められた駐車場の真ん中に佇む、いっぽんの木の息遣いを感じていると、狭くて苦しくて、悲しくなる。木の実をクチバシで咥え、空から落としては拾い、また空から落としては拾い、ついに割って実を食べることができたカラスの息遣いを感じると、達成感と喜びに満ち溢れてくる(狡猾だけど)。空にぷかぷか浮かぶ雲の息遣いを感じれば、細かいことはどうでもよくなって穏やかな気持ちになる。
呼吸を通じて、自分以外のものと繋がれる。てめえのことばかりだと戒めるときは、きまって呼吸を失っている。呼吸には生命の情報がたくさんある。これまで歩んできた過去や、どうしようもない悲しみや怒りが眠っている。それが自分の身体で体験して始めて、てめえは消える。
呼吸の中の情報をどれだけ受け取れるかが、世界と繋がる深さに直結しているように感じる。世界を知るための孤独と、肉体を死なせる鍛錬がある。
呼吸に命を感じている。相手の呼吸を感じることができれば、相手のことを思いやれる。木も動物も草花も、そして我々人間も、すべてに呼吸があって、命をやり取りしながら、今日も世界は呼吸で溢れている。世界の呼吸に気づいて生きているかぎり、世界は人を生かしてくれる。https://t.co/O9SKTasJCe
— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) December 14, 2022
精神修養 #90 (2h/188h)
・今日の雲はどうしてあんなにも悲しい色をしているのだろう。肉体が朽ちれば、こうして美しい雲をみることも、感じることもできなくなると思うと、途端に命あるこの瞬間が夢のように儚くなる。
・呼吸に集中するとは、濁流の中に打った一本の木の杭にしがみついているようなもので、気を緩めれば、濁流に飲まれ、どこまでも流されていく。ひたすら木の杭にしがみついては、流されてを永遠と繰り返す。
・俗世で生きる以上は、作用に対する反作用に常にぶつかり続け、反作用は濁流となって自分を飲み込もうとする。
・瞑想は自分の呼吸を通じ、世界の呼吸と共にあることをいうのだと思う。
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