横浜、千葉、東京を経て、再び山梨へと舞い戻った。
ここのところ雨が続く。
「今日も雨か…」と憂いな気持ちになる自分に、「おいおい、ちょっとまて」ともう一人の自分が制する。
昔の人たちは、日照りのときには雨乞いをしてきたのだ。
雨は穀物を育ててくれる、「神様からの贈り物」と考えられていた。
人が生きていられるのは、雨のおかげであり、人は雨なしに生きていくことはできない。
こうして豊かになった今も、それは変わらないはずだ。
うねる髪の毛や生乾きの洗濯物に雨を睨むのは、人間様の傲慢ではないだろうか。
そんなことを思いながら、今日も雨の中を走る。
天を仰ぎ、頬を打つ恵みの雨に、今日も希望を持つ。
私たちは自己に矛盾を抱える。人間が矛盾するイキモノと知らないと、そんな一面に困惑する。
けれども、それが本当の人間の姿だ。
そんな矛盾を受け入れたとき、人は本物の輝きを放つ。
それが人の持つアンビバレントな一面だから。 https://t.co/jP8OO7zis5 pic.twitter.com/wDseClpo3M— とむ(原付テント生活) (@tomtombread) July 15, 2019
「アンビバレント」という言葉がある。
相反する二つの価値が一体化した状態のこと。
- 大胆かつ繊細
- 厳しく、優しい
- 強く、弱い
- 強靭でしなやか
- 論理的で感情的
- 粗く細やか
初めてこの言葉を聞いたときは、さっぱり理解できなかったけれど、今なら少しわかる気がする。
「本物」「一流」と称され、人の心を根から揺さぶるものは、どれもアンビバレントであると。
イチローは、強靭でしなやかな筋肉を持つ。
挫折して、弱さを知った者は、弱さの中に強さをまとう。
富士の山は、樹海のような過酷さを持つ反面、その景観はとても美しい。
私は、アンビバレントな生き様に惚れる。
弱く強く、厳しく優しく、大胆かつ繊細に、知性も感性も、父性も母性も大切にして生きたい。
きっと、誰しもがそんな素質を内に秘めている。
あとはそれを、どう、いつ、開花させるか。
1 繊細に生きる日本人
人には、父性的な側面と母性的な側面がある。
今の日本人は母性を欲している。
東京で、教員時代の同志である30代の男性、Tさんに会ったときに、こんなことを言われた。
「ちょっと母性的になりすぎじゃない?」
その言葉を受けた私は、確かにそうだとハッとした。
人には父性と母性がある。
- 厳しさを父とするなら、優しさは母。
- 攻撃を父とするなら、守りは母。
- 野望や挑戦を父とするなら、愛や受容は母。
- 大胆さを父とするなら、繊細さは母。
何もこれは、性別で区分けられるものではない。
母性的な男性もいれば、父性的な女性もいるし、はたまた、母性的かつ父性的な人間もいる。
写真家、作家の藤原新也はこう言う。
今日本人が、日本全体が、父性というものを失っているけど、父性というものを見直してほしい。
これは戦争経験が大きい。わずか70数年前に戦争というもろに力の世界で何百万人が殺された。
戦争は父性を肥大化させた世界。父性と父性がぶつかり合った戦争は何も生まず、ただ父性に対する拒絶反応、トラウマを生んだ。
父性は決して悪いものじゃないのに、日常生活の隅々に父性否定みたいな感覚が浸透してる。父性の強さよりも優しさを求める。
引用元:東洋経済ONLINE
彼の主張をまとめると、こうだ。
- 今の日本人は父性を失っている
- 父性と父性がぶつかり合った戦争は、父性の拒絶を生んだ
- 父性の拒絶は、強さよりも優しさを求めた
確かに今の日本は、父性よりも母性に覆われている。
優しい(母性的な)父親が、ロールモデルのように扱われ、厳格で規律的で(父性的な)な父親は、時代遅れの堅物のように扱われる。
規律の整った教育は、軍隊教育と揶揄されて、社会には「頑張らなくてもいい」「ありのままでいい」というメッセージが深く浸透する。
ただ、一方で私はこうも思う。
今の日本は、母性なしには生きていくことが過酷すぎる社会なのだ…と。
頑張らなくてもいい、という母性的な言葉に触れても、日本のうつ病患者は、100万人を超える。
働きたくても働けない若者は、200万人もいる。
今の日本人は、
- 父性を失っているのではなく、父性を失わざるを得なかった
- 代償として、母性を獲得せざるを得なかった
のだと思う。
ちなみに私自身も、教員を挫折して以来、母性を獲得しようと努めてきた。
これまで描いてきた夢やビジョンを一度捨て、心の声を拾い、自己を受容するに専念した。
そんなときに本腰を入れたこのブログは、自己受容的で母性的な記事が大半だったりする。
今の日本は、愛に飢えている。
父性を毛嫌いしているのではなくて、母性を欲している。
私にはそんな風に見える。
2 大胆に生きるということ
母性を受け入れた者に、父性は響く。
母性と父性のバランスで、自分を幸せに。
私たち人間は、乳幼児のときには母性を必要とするようだ。
母親の無条件の愛をたっぷり受けることで、すくすくと育つ。
学校に入るようになってからは、父性を必要とする。
父親から知恵や文化を学び、社会とのかかわり方を学ぶ。
私たち人間は【母性→父性】の順番に獲得する。
これは大人になっても同じだと思う。
自分に優しくできる(母性)から、初めて自分に厳しく(父性)できる。
愛に生きることが、安全基地を生み、夢を追うことを後押ししてくれる。
自分に優しくできないまま、自分に厳しくすれば、そりゃ生きることが辛くなる。
健全な自己否定は、無条件の自己肯定の上に生きるものなのだ。
「ちょっと母性的になりすぎじゃない?」と言われて、私がハッとしたのは、母性的な生き方に少し物足りなさを感じていたからだった。
私はもともと、自己否定と自己研鑽を繰り返し、挑戦を繰り返す生き方をしていた。
現状に安住することなく、健全に自己否定し高みを目指す、父性的な生き方にも血の通う面白さはある。
要は、人それぞれのタイミングなのだろう。
愛に飢えていれば、母性を必要とするだろうし、基盤が整えば、父性を必要とする。
今自分が必要としているのは、自己を受け入れる母性なのか、それとも自己研鑽をする父性なのか。
どちらが正解ということはなく、必要としているものを堂々と選び取ればいいのだ。
3 大胆かつ繊細に生きる
父性も母性も大切に。
アンビバレントには神が宿る。
冒頭で紹介したアンビバレントという言葉。
母性的かつ父性的な状態。
自己の正義に忠実な野望を追い求めつつ、身の回りの人に無条件の愛情を降り注げる生き様ができたら、すごくかっこいいと思う。
そんな生き方には、人の心を震わす本物の魅力があるのだと思う。
ただ一方で、忘れたくないことがある。
私たちは補完し合って生きている、ということだ。
父性と母性という観点から、この世界を改めて見たとき、人々は足りない部分を補い合って生きていることが分かる。
「あなたはあなたのままで大丈夫。」という母性的な言葉もあれば、
「お前の力はそんなもんじゃねえだろ! お前ならもっとできる! 頑張れ! 立ち上がれ! お前ならやれる!」という父性的で力強い言葉まである。
必要に応じて、私たちは今の自分に必要な言葉を選び取って生きている。
大胆に生きるときも、繊細に生きるときもあるのだ。
父性と母性は矛盾する。
それゆえ、私たちはときに困惑する。
けれども、それでいいのだ。
人間は矛盾するイキモノだから。
そんな矛盾を受け入れ、自己の中に見出したとき、私たちはアンビバレントに近づく。
自分が欠けているものに気負わず生きていこう。
私たちは足りない部分を補うために、存在しあうのだ。
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