菅平高原にいる。昨日は妙高高原にいた。今日はこれから0円空き家のある、富士見高原に向かおうとしている。
おい、私よ。ちと高原に、入り浸りすぎてやしないかい?!
確かに高原は素晴らしい。夏でもカラッとしていて涼しいし、人も少なくて鳥の声が良く聞こえる。木々も低所より生き生きとしていて、とりあえず元気のない人がいたら、手を引っ張って高原に連れていきたいと思う。
しかし、こないだ自分でも言っていただろう。想定内の行動は、満足を生むことはあっても、感動を生むことは減ってしまう。心を満たせることはあっても、心に刻めることは少なくなる。
昨日高原に着いたときもそうだ。「高原は風が冷たくて、気持ちよくて最高だぜ!」みたいに感じていたけれど、所詮は、知っている感覚の答え合わせをしたにすぎなかった。
別にいいんだ。答え合わせをしても。でも、毎日を答え合わせで埋めていたら、感動は訪れない。
「こらこら!せっかく人間やってるんだから、答え合わせばかりしていないで、その身体がボロボロになるまで、存分に使いなさいよ!」という内なる声が聞こえてくる。
では、答え合わせを一切しないで、自分のやったことのないことだけをするのが、理想だろうか?
それも微妙に思う。強がるのはいくらでもできるけれど、それでは自分が持たないと思う。オラオラやってるだけじゃ、いつかは潰れる。
高原に着いて、冷たい風を顔で感じていたとき「やっぱこれだよな~!」と満足する自分と、「最初からこうだと知ってた」と冷めた自分がいた。
満足した自分と、冷めた自分、性格はとても対照的だけれど、どちらも自分の一部だ。それぞれの自分には、それぞれのストーリーがあって、それぞれの感情と、言い分がある。
どちらも犠牲にできないし、どちらのストーリーも、心情も、知ってやれば、両方引き連れていくという道が一番自分を大切にできる。
冷涼な高原を満喫したい私がいて、まだ知らぬ熱々の地で心に刻みたがっている自分がいる。そんなことに気づいた今、、、もうすでに16時だよ~(泣)
皆もこういった矛盾する感覚に出会ったら、両者の言い分に耳を傾けてあげて!
人は日常的に「答え合わせゲーム」を行っている。
本を読むことも、人に会って話すことも、何かを食べることも、ブログを読むことも、youtubeを観ることも全部そう。
「こう質問したら、こんな言葉が返ってくるだろうなぁ」とか「このサムネはこんな動画だろうなぁ」とか。
多分、今この記事を読んでくださっているあなたも、タイトルを見てきっとこんな内容なんじゃないかなぁ~とか、とむのブログは今日はこんなこと書かれてるんじゃないかなぁ~みたいな、想像を先に膨らませて、読みに来たと思う。
想像との答え合わせに成功すれば、欲は満たされるし、想像との答え合わせに失敗すれば、欲は満たされない。
どうだろう、今、想像との答え合わせはできているでしょうかっ!?
一方で、答え合わせだけでは、満たしきれない欲もある。やったことないこと、行ったことない土地、話したことのない人、聞いたことのない歌、見たことのない映画。
どんな結果が待ち受けているのか想像できないから、何の実りもなかったらどうしようみたいに考えちゃうし、未知に傷つく怖さもあって、結果知っている安全な橋を渡ってしまうことも少なくない。
でも、こういった未知の体験には、答え合わせでは決して得られない満足感はある。満足感というより、充実感といった言葉が近いかもしれない。
満足と充実、言葉そのものが違うように、心の満たされ方も性質もまるで違う。
youtubeはお手軽だけれど、映画を一本観るのは少し気持ちがいるように、満足感は簡単に手に入るが、充実感は手が届きにくい。
ある友人から、いもいも教室という井本先生の信条を教えてもらった。
「やりたいことは、やらないことに決めている」と。
さて、答え合わせもほどほどに、普段やらないようなこと、小っちゃなところからでも冒険しよう~!
昨日の記事では、「私のパイオニアには、私にしかなれない」と言ったけど、私たちは、パイオニアでもあるし、冒険家でもあるのかもね!
じゃ、今日はこの辺りで!マンネリしている心に風穴を開けるぞ~!
また明日!ばいばい!
お久しぶりです。
元気になられたようで、なによりです。
人生は答え合わせの連続 確かにそうだなと思いました。
ゲームのように リセットマラソン(リセマラ)はできないし、
1度きりだからこそ 楽しいことを見つけてすごして生きたいと、
強く思いました。
少しずつ自分も強くなりたい 今日この頃。
わ~KYO.さん、ご無沙汰しています!
朝からKYO.さんの心持ちを聞けて、とても嬉しいです~!