白カビが生えていた廃材も、タワシでゴシゴシこすると驚くほど綺麗になった。さすがに、これは使いたくないと思っていた汚れた廃材も、水で洗うひと手間だけで見違えるほどの別物である。カビの臭いはなくなり、古材の質感だけが味わい深く残った。
正直にいえば、これらをもらってきたときは、廃材の汚れと、あまりのカビくささに、ゴミ(薪)になるだけだと思っていた。実際、虫食いのある部分や、腐っている箇所はどうしようもないが、材そのものがしっかりしていれば、タワシで懸命に磨けば、なんとかなるようだ。
もうボロい廃材をもらうのはこりごりだと思っていたが、これだけビフォーアフターがはっきりしていると、やっていてかなりおもしろい。次第に、どんなボロい廃材でもかかってこいという気になってくるのだから、そしたらもうしめたものである。
一般人は見た目が汚いものには拒絶反応を起こす。これは当たり前のことである。しかし、ゴミから宝を発掘するような強者たちは、そこを反射的にならずグッとこらえ、いったん引き受けてしまうのだ。最初は我慢しながらも、その汚いところに自分の手で触れて、状態のよいものへと変えていく。それができるのは、経験によって物が生まれ変わることを知っているからだ。
知り合いの女性に、海に捨てられたゴミを掃除して、海洋プラスチックからアクセサリーに作るたくましい女性がいる。綺麗な状態をみれば、誰だって好ましい感情が生まれ「いいなぁ」と思うものであるが、彼女たちをみていると、ほんとうは汚い状態の、気持ちの悪い感情にこそ、あらゆる仕事に通ずる価値があると感じる。汚いものに触れたくないと思うのは一般の反応である。だから自ら汚れを、誰かの代わりに引き受けることによって、社会の役に立っていくのである。
とても小さなことではあるが、私は今日、カビの生えた廃材を磨きながら、新しい仕事観に触れたように思う。綺麗に働きたい、楽に働きたいと思うのは、人間の性かもしれないが、綺麗なことや楽なことには、そもそも人の手など必要ではない。ほんとうに人の手が必要とされるのは、汚れていて、大変で、苦しいことである。それを知れば、仕事の苦しさにも、仕事の本質だと思って立ち向かえる力を手に入れられるかもしれない。
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