働く意味がわからない…
朝7時に起きて会社に行っては、帰ってくるのは0時近く…
生きる為にはお金が必要….
けれど、本当に生きるために働いているだけのようで、毎日が虚しい…
こんな方は、案外少なくないのかもしれない。
率直に、
「働く意味がわからないのは、働かない意味がわからないから」
なのだと思う。
働かない意味がわからないから、働く意味もわからない。
どっちつかずの宙づりの状態。
働く意味は、働かない経験をして、初めて浮き彫りになる、と私は思っています。
無い状態を経験することで、「働くこと」の自分なりの意味を見出すことができる、ということです。
私はいま、山にこもりながら、お皿洗いの仕事をしています。
多いときには、1日12時間、ひたすらお皿を拭きあげます。
番長
そんな風に思われた方もいるかもしれませんね。
正直に言えば、つまらなくもないですが、とても楽しいというわけではありません。
けれど、心は疲弊するというより、充足する方向に向かっていることは確かに実感できます。
「単調な労働をしたからこそ学べたこと」
そんな視点から、ここでは書き留めていこうと思います。
Contents
1 働く意味がわからないのは、働かない意味がわからないから。
船は沈没して、初めて値打ちが分かるように、
働くことから距離を置いて、初めて働くことの価値が分かる。
藤原新也の「大鮃(おひょう)」という小説の一節に、こんなものがあります。
「これくらいの小さな船に乗ったことはあるかい?」
「ええ、何度か」
「怖くはねぇか」
「それは、……怖いですね。命を晒しているような怖さを感じます」
「ちったぁわかってるんだな。じゃ話が早えぇや。沈没したことは?」
「ないです」
「じゃ船のことは半分しか分かってないということだ。車でもぶつけてはじめて車の値打ちがわかるだろ。船も同じさ。沈没してはじめてそれが人間にやさしい船かそうじゃないかってことがわかるんだ。」
これは、父性を求めて旅をしている青年が、とある船大工とかわした言葉です。
「車をぶつけてはじめて車の値打ちがわかるように、船も沈没してはじめて船の値打ちがわかる。」と。
まったくその通りで、これは「働くこと」に対しても、同じだと思うのです。
つまり、
- 働いているうちは、働くこと意味は半分しかわかっていない
- 働かないことから、働くことのもう半分の意味が初めて分かる
ということです。
働くことは経験していても、「働けるときに働かないこと」を経験した人は少ないのではないでしょうか。
私も含め、勤労な日本人は、毎日働くことが当然だと考えていますし、仕事が嫌になっても、「やめて何もしない」ことより「転職すること」を考えます。
もちろん、生きていくためには生活費がある程度必要ですね(これも切り詰めればほとんどかからないのですが)。
けれど、「働かない」期間を経て、働くことの意味を再確認できることもあるのです。
1つ実体験を紹介させてください。
私は、今の仕事をする前は、教員をしていました。
毎日の睡眠が3~5時間程度で、過度なストレスで持病の吃音がひどくなり、言葉が出なるほど疲弊していました。
それを機に、教員をやめて「何もしなかった」のですが、なんとまあ「働いていたとき」とは別種の苦しみを味わったのです。
肉体的な疲労はなくとも、猛烈な劣等感と孤独感に襲われました。
- 社会の一員であるという所属意識
- 誰かの役に立っているという貢献観
- 人と繋がっている感覚
働くことをやめたことで、そんな感覚を失い、心のコップを満たせなくなったのです。
これは、働かない期間を経て初めて見えた「働くことの価値」でした。
「働く」という行為が、こんなにも自分の精神を支えていたのだなと、驚いたこと覚えています。
私たちは気づきはしないものの、働くことから多くの恩恵を得ています。
例え、身体がフラフラになろうとも、働くことの恩恵をしっかりと享受しています。
番長
2 働く意味がわからないのに、やめられないのは恩恵を得ているから
辞められないのは、無意識に恩恵を授かっているから。
辞めるのには、孤独や劣等と向き合う覚悟がいる。
私が仕事をやめて失ったのは、
- 社会への所属感
- 誰かの役に立っている貢献観
- 人と繋がっている感覚
でした。
人は見えるものに反応しがちなので、仕事をやめるというと「いかにお金を工面するか」ばかりに意識がいきがちです。
けれど実際は、孤独感、将来への不安、劣等感との闘いの方が、何倍も大変なのです。
極端かもしれませんが、お金を工面することなんて、その気になればいくらでもできます。
辞めた後、私は賃貸を手放して、車で生活を始めました。
家賃光熱費はもちろん0。やればできてしまうものなのですね。
(⇒車上生活を2カ月してみた!こんなんでも生きていける。内装も紹介)
月にかかるのは、年金・保険料、ガソリン費と、食費、スマホ代、その他購読しているサービス。
今の生活を見直してみると、
- どれだけ無駄なものに囲まれているか
- 生きていくために本当に必要なものなんてほとんどない
ことに気づくと思います。
やはり、精神的にどう充足するかが、最後の砦となりました。
孤独、不安、劣等感、それらとの闘いに、腹をくくる必要があったのです。
そういう意味で、「働くこと」が支える役割ってすごく大きい、と私は思っています。
- 毎日顔を合わせて「おはよう」と伝えられる同僚がいる。
- 自分のしたことに対して「ありがとう」と言ってもらえる相手いる。
- 自分の理想に向かえる環境がある。
- 1日の終わりに、やりきった疲労感がある。
そんな当たり前のことが、実は心の基盤を固めていたりします。
「働きすぎ」は、時に人を死に追いやりますが、
「働かないこと」の先に、必ずしも幸せが待っているとは限らない
と私は思っています。
3 働く意味がわからないときの葛藤。
誤解を恐れずに言えば、私は皿洗いの仕事なんて、「社会のど底辺」だと思っていました。
単純労働で、機械的で誰にでもできる。代えがきくし、直接お客さんに感謝されることもない。
現に、今働いているレストランでも、直接お客さんに対して華やかに奉仕するホールスタッフの方が、裏方で地味に皿を磨きつづける皿拭きスタッフよりも高尚である、みたいな空気も少し感じるわけです。
これが、私たちの「見栄」なわけですけれど、ここで働く人達を観察していたら、ちょっと面白いことに気づきました。
それは、「スマートに振舞うホールスタッフよりも、皿を磨き続けるおばちゃん達のほうが、人間らしくて、幸せそう」ということです。
ちょっと皮肉っぽいですね。
もちろん、必ずしも一般化できるわけじゃないし、若年層とおばあちゃんを比べるのはフェアではありませんが、
- 見栄に凝り固まって、スマートに振舞おうとすれば、逆に機械的になるし、
- 仕事自体は機械的だけれど、見栄っ張らず、自然と振る舞えば、逆に人間味はあふれでてくる
ことは一理ある、と思ったのです。
そんな気づきを得てからでしょうか。
そこで働いている人に少しずつ敬意を抱けるようになって、単純な労働の中にも、心の充足を見出せたのは。
果たして、そんなところに働く価値を見出すのは、低次だと嘲られるでしょうか。
けれど、私はどんな仕事も形は違うだけで、実は大差はないと思い始めているのです。
4 働く意味がわからなくてもいい。どんな仕事も大差はない
どんな仕事も大差はない。
形にこだわるより、中身をどうするかのほうがよっぽど大切。
「どんな仕事も大差がない」と言ったのは、どんな仕事をしようと、心の充足は
- 他者への貢献感
- 社会への所属感
- 他者との繋がり(信頼感)
- 自己受容
に支えられていると気づいたからです。
(ちなみにこの4つは、アドラー心理学でいう「共同体感覚」というものですね。)
華やかなものから、地味なものまで、世には様々な仕事がありますが、化けの皮を剝がしてみると、どれも本質は同じではないでしょうか。
結局、『どんな仕事でも、幸せになろうと思えば幸せになれるし、不幸になろうと思えば不幸になれる』のです。
「社会のど底辺」だと思っていた、洗い場で1年間働いた経験から、そんなことを思います。
ただ、どうかこの言葉を、希望として受け取ってほしいのです。
仕事選びに躍起にならなくても(形を必死に取り繕おうとしなくても)
(中身さえ大切にすれば)どんな環境でも人は輝ける、ということですから。
- 働く意味がわからなくなるほど消耗しているのなら、辞めてもいい。
- 今の仕事が違うと思うのなら、別の形で試してみればいい。
- 仮に、皿洗いの仕事しかなくても大丈夫だ。
- なぜならば、どんな環境だろうと、中身を磨けば、いつでも舞える。
そう考えれば、働くことに対する肩の荷が、少しは降りませんか?
といっても、働かない時間を体験してみないと、共有できない感覚かもしれませんね。
少なくとも私は、働く意味がわからない(それほどに心が消耗している)のなら、空白の期間を持ってみることもいいと思いますよ。
5 まとめ
ここでお伝えしたかったことは、大きく以下の5つ。
- 働かない期間を経て、初めて働くことの意味が分かる。(気づかないだけで恩恵を得てる)
- 所属感、貢献感、信頼感、自己受容は、働くことから得られるもの
- 仕事の意味なんて、どんな仕事も大した差はない。
- だから仕事選びに躍起にならなくても、与えられた環境で人は輝ける。
- 働く意味がわからないほど消耗してるなら、辞めてもいい。自分で決められる。
形を変えることは、とても怖いのですが、それよりももっと怖いのは、変形できなくなること。
自戒を込めて、そんなことを思う日々です。
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