いったい何が私を苦しめるんだ。なんで毎日、毎日、死にそうになってるんだ。
今日、食べる物がある。眠るところがある。迫害もされず、空から爆弾も降ってこない。
満たされているはずのこの現代で、魂だけが悲痛の叫びをあげて、渇きつづけて、悶え苦しんでる。
くそう。どうしてこんなに苦しい人間に生きてんだ。なんで人間はこんな苦しいんだ。
その悩みとは、《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身でありつづけることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。
まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。
人間という不幸な生き物にとって、生れたときから身にそなわっている自由という贈り物を少しでも早く譲り渡せるような相手を見つけることくらい、やりきれぬ苦労はないのだ。だが、人間の自由を支配するのは、人間の良心を安らかにしてやれる者だけだ。
お前は人間の自由を支配する代わりに、いっそう自由を増やしてしまったではないか!それともお前は、人間にとって安らぎと、さらには死でさえも、善悪の認識における自由な選択より大切だということを、忘れてしまったのか?人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものはない。
人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。お前に惹かれ、魅せられた人間が自由にあとにつづくよう、お前は人間の自由な愛を望んだ。昔からの確固たる掟に代わって、人間はそれ以来、自分の前にお前の姿を指針と仰ぐだけで、何が善であり何が悪であるかを、自由な心でみずから決めなければならなくなったのだ。だが、選択の自由などという恐ろしい重荷に押しつぶされたなら、人間はお前の姿もお前の真理もついにはしりぞけ、反駁するようにさえなってしまうことを、お前は考えてもみなかったのか?
自由や自由な知恵や科学などは彼らを深い密林に引きこみ、たいへんな奇蹟と解決しえぬ神秘の前に据えてしまうので、彼らのうち反抗的で凶暴な連中はわれとわが身を亡ぼすだろうし、反抗的であっても力足りぬ者は互いに相手を滅ぼそうとし合い、あとに残った弱虫の不幸な連中はわれわれの足もとにいざり寄って、泣きつくことだろう。
ドストエフスキー, 「カラマーゾフの兄弟(上)」,新潮文庫
何が自分を苦しめてるのかは大体分かってんだ。この自由を生きられるほど、俺は強くないんだ。善悪の自由が私を苦しめ、毎日良心の安らぎを求めるも、ひたすら拒絶されて、永遠と苦しんでんだ。ああこの人間の不幸は、どうして。。。。。
なぜ魂は人間を苦しめる。なぜ悪魔が世界を支配する。安らぎはどこにある。救いはどこにある。ああちくしょう。俺の生命力はこの程度か?
毒は飲んだ。こいつをやっつけるが先かやられるが先か。肉体はそれまで耐えうるか。こうして生きることはすべて宿命だったのだ。すべて運命に委ねる。この身のすべてを宇宙に任せる。
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