深い深い生命の根源を震撼させて。[267/1000]

嘘だらけの世界に生きている。

道徳によって、世界の秩序は保たれているけれど、秩序に飲み込まれたとき、道徳は嘘っぽい生き方しか生まない。道徳や秩序は、時代に流れる濁流のようなもので、秩序正しく生きることは、濁流に飲まれ、流されていくことを意味する。流されていくのは楽だけれど、生命的には力を失っていく。

道徳は目指すべきところではある。道徳が立派であることは間違いない。しかし、道徳は、夜空に浮かぶ月のように、永遠と辿り着けないものであるべきではないか。我々は道徳を守るために生きているのではない。道徳家になることもゴールではない。生命を生かすことを望む人間にとって、道徳は時代の濁流に逆らうための道具でしかないのだ。だから道徳は破るためにあると言われる。

 

家を持たない、妻子も持たない、仕事も安定していない、大した芸術の才能もない私は、どうしようもないダメ人間である。もうこれは自覚してる。今日死んだら、親や友人は悲しむだろうけど、社会にとっての損失はゼロで、その辺りにいる虫が死んだのと変わらない。いや、さすがに虫と比べるのは、神への侮辱であるけれど。しかし、神を失った今日の物質世界に関していえば、本当に私など虫けらのような存在なのだ。

ダメ人間の自分に罪の意識を感じない日はない。過去にそうして罪の重さに潰されたのだ。しかし、ここに神の恩寵を感じるのは、人間的な、生命的な話に関していえば、私は私の内に、嘘ではない、本当を感じられるということだ。秩序から破れ出るほど恥に苛まれるが、破れ出て、恥を感じる分だけ、生命が生きていることを自覚させてくれる。

 

生命が生きる自覚は、秩序の外側でしか生まれないのだと思う。いわゆる、典型的な生き方(マイホームを持って、妻子をもって、安定した仕事をして、休日は趣味をして…)に倣えば倣うほど、生命的に嘘が多い印象を受けるのは、秩序の外側が存在しないからだ。

モーム著「月と六ペンス」のストリックランドに憧れる。家も妻子も仕事も土地も財産も、すべてを捨てて、生涯を絵を描くことに捧げた。ストリックランドを見ると、秩序正しく生きられるほど優等生ではないのが、人間の魂であるように思えてならない。ドストエフスキーの罪と罰やカラマーゾフを読んでいても、狂ったようにヒステリックに叫ぶ女や、嫉妬に荒れ狂う男が登場する。魂は人を狂わせる。狂った人間から道徳は破られ、秩序は壊されていく。

社会から見れば、そうした人間は処罰される。老婆を殺めたラスコーリニコフが最終的にシベリアに流刑となるように。秩序を破ることは、生命を生かす代償に、不幸を被ることなのだろうか。

そうだとしたら、とても苦しい生き方だ。でもなんて生命的に美しいのだと、深い深い生命の根源が震撼している。なぜ人間として生まれたのか、なぜこの時代を生きるのか、こうした問いはいつも永遠に結びついていく。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です