幸せと仕合わせの違い/不幸を恥とせず仕合わせを誇りとする[164/1000]

葉隠に「不仕合せの時、草臥るる者は益に立たざるなり」という一句がある。

なぜ「幸せ」ではなく「仕合せ」なのか、ずっと疑問だったが、これは幸せの旧字なのではなく、”仕えて合わさる状態”を指しているのだと思った。

 

あくまで私の解釈である。

武士道や騎士道をはじめ、信仰深い人間は、夫に仕え、主君に仕え、天皇に仕え、天や神、主に仕えてきた。自分の命のすべてを対象に捧げ、自分を内側から燃やし、外側には法を身に纏って生きた。仕えることについては、昨日も書いた。

 

主に仕え、想いが純粋な一点を極めたとき、人は対象と一体になった。つまり、合わさった。この状態を「仕合せ」といったのではないだろうか。

敬天愛人に生きた西郷隆盛も、明治天皇の崩御に殉死した乃木希典も、仕合せに生きた人間だったと言える。

 

仕合せが純粋な一点だけを指すならば、自分の命のすべてを奉げられる忠誠な人間でなければ、不仕合わせとなる。この基準はとても厳しい。

しかし厳しいからこそ、卑しく傲慢な自分を戒めるにふさわしい言葉となっていたのではないだろうか。自分という存在はそれほどまでに手強く、隙を見せれば肥大化する。ゆえに富士山のように厳格で高貴な誓いを必要としていた。

葉隠の別の一句には「仕合せよき時分、自慢と奢があぶなきなり。」とある。仕合せが自分を制することであることは、この言葉からも分かる。

 

 

今は仕えるという概念が失われ、仕合せという言葉は、幸せに変化したのだと思う。仕合せと幸せは、まったくの別物である。

 

幸せは幸福を指す。英語でいえばhappy。幸せを感じるのは「自分」である。自分が満ちたとき幸せとなる。

一方、仕合せは、先にも書いた通り、仕え合わさった純粋な状態をさす。分かりやすくいえば、天と一つになるということ。自分はもはや問題ではなく、満たされるか否かも関係なくなる。幸せだろうと不幸だろうと、そんなことはどっちでもよく、問題とするのは、自分がどれだけ純粋であれるかだ。純粋な点になる瞬間こそ魂の歓喜であって、物質的に肉体(心)を喜ばすことは、はなから眼中にはない。

 

物質的に貧しかったころは、必ずしも全員が幸せになれるわけではなかった。しかし、自分に打ち克てさえすれば、仕合せになることはできた。仕合せは誇り高い人間の美しき在り方を説いたものだったと思う。

 

不幸を恥に思う必要は一切ない。恥にすべきは不仕合わせだろう。

乃木希典は昭和天皇に、「着物に穴のあいているのを着ちゃいけないが、つぎのあたったのを着るのはちっとも恥じゃない」と教えていた。これが日本人が大切にしてきた美意識だった。

 

幸せだろうと不幸だろうと、命はそんなこと興味がないと言わんばかりに、ただひたすら燃焼している。

魂は歓喜する瞬間を恋焦がれている。

 

精神修養 #74 (2h/156h)

自分を大切にする。自分を大事にする。自分を好きになる。これらを是とする前提がそもそもの間違いであると感じる。

西郷隆盛は、「天を相手にせよ。人を相手にするな。」と言った。金剛般若経は「かの人たちは、わたしを見ないのだ。」と詩を残す。

 

自分を嫌いになるもまた違う。自分を嫌いになるとは、自分を好きであるということ。自分にこだわりすぎていることにかわりはない。

瞑想をしていて、毎度立ち返ることは、自分は自分のものではないということ。死ねば肉体は燃やされ、魂は自由となり、すべて宇宙へ還る。つまり自分とは宇宙人であり、宇宙より遣わされ地上にいると考えられる。

 

[夕の瞑想]

人によって持って生まれたエネルギー量が違う。これは子供にかかわる仕事をしていたときにも感じていたことだった。エネルギーの塊のような子供もいれば、おとなしい子供もいる。

持って生まれたエネルギー量は宿命であり、このエネルギーを法によって圧縮し天に向けて放つことに、その人間の運命がある。歴史に名を残すような偉人は、持って生まれたエネルギーが強大であったことは想像にたやすい。この強大なエネルギーを、法によって圧縮し爆発させたところに、数々の偉業は生まれた。

身の程を弁えるとは、己のエネルギー量を知ること。知った上で、法によって制し、自分の成しうる限りの最大の生き方をすることではないだろうか。

 

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