変わらない日々に、私たちは助けられている[65/1000]

新潟は柿崎の海にいる。

海には波がある。塩がある。魚がいる。野性がある。動きがある。海に来れば、元気になれるような気がした。

 

来て早々、上裸になって、潮風を浴びる。相変わらずここの海は、人がほとんどおらず、私以外に釣り人が1人しかいなかった。

夕暮れどきの、誰もいない海は、最高に気持ちがいい。

 

平泳ぎやクロールで、誰もいない海で小さく暴れた。

熱で寝込んでから、まったく運動をしていなかったので、泳いでいると使っていない筋肉が伸びて、いい悲鳴をあげるのが分かった。

 

疲れたら、背を下にして、空を見上げる形で、しばらく海に浮かんでいた。

たまに、水が口の中に入ってくるのが、しょっぱい。今日は、このまま玄米を食べられるなと思った。

 

 

ここの海は相変わらず綺麗だが、やっぱり世界が微妙に、変わっているような気がする。

お節介に話しかけてくるあのおじさんも、黒いでっかい犬を引き連れて散歩するおばちゃんも、私のオカリナを楽しみにしていたおばあちゃんも、誰1人として姿が見えない。

 

同じ海だけれど、同じじゃない。少し寂しい気持ちになった。

変わらないのは、静かな海と、海にしずむ夕陽だけだ。夕陽は相変わらず、すごくきれいだった。

変わらないものを見つけると安心する。

 

人は、毎日繰り返し行われることに、安心感をおぼえる。

だから同じことを繰り返し、同じことが繰り返される場所に、心を帰すことができる。

 

私はここの海に、家のような安心感をおぼえていたが、それは地元の人が毎日必ず行っていた習慣のおかげだったように思う。

毎日同じ時間に、姿を見せては絡んでくる、あのお節介なじじいは、少しうざかったが、あの日常も今となっては恋しい。

 

土地に長いこと腰を下ろすと、繰り返し行われることや、毎日変わらないものが、見えてくる。

柿崎の海には、2週間滞在しただけだったが、それがよく分かった。

 

 

私がこうして車で転々する生活を始めて、3か月くらいが経っただろうか。

私は、日常の暮らしの中で得られる、繰り返しの安心感に、飢えている。

 

今、私に元気がないのは、旅が長くつづいたことで、心が乾いてしまっているからのような気がする。

 

旅をすると、心には新鮮な風が吹くが、吹き続けられると、心は乾いていく。

暮らしの中でしか得られない、安心な土台を失うと、宙ぶらりんの状態になる。

 

 

旅の対義語があるとしたら、暮らしだと思う。

土台のない生活は、自由に見えるかもしれないが、土台があったほうが、生活は安定する。

 

私はいま、毎日、同じように繰り返される、暮らしに身を置きたくなっている。

きっと暮らしに身を置いたら、また旅に出たくなるだろうが、、、それを繰り返しながら生きていくのだろうか。

 

 

ブログを書いていて、こんな状態でよく続いているなと我ながら思う。

言葉を書きながら、ここに自分がいるという実感がとても薄くなっていて、自分があまりいい状態でないことはよく分かる。

 

それでも読んでくれる人がいることもすごいなと思う。今日で65日目。

こんなブログでも、毎日繰り返される中で、何かしらの安心を生み出しているのだろうか。

 

もしそうだったら、嬉しい。

書くことのネタなんてとうに尽きていて、私はただ今ここにあるそのままを残すことしかできない。

大したことは何も書けない。何で書いているのかも、こんなことをしていて本当に意味があるのかも分からなくなっている。

 

しかし元気がないときの考えは、当てにならない。

元気になったら、理由なんてその時の自分が、きっとまた見つけてくれる。

 

 

だからもう、そのままを残すことしかできないんだ。

今何を考えても、もう仕方がないから、ただ流れるように、生きよう。

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