逃げよう、罪の意識に殺られる前に。否、逃げたら永遠に追ってくる。罪の意識は、こちらから立ち向かっていき、食ってしまうしかないのだ。自分がタブー視しているようなことでも、平然と笑って破っていく人間は、幾たびも罪の意識を乗り越えて、食い殺してきたにちがいないのだ。
宇宙は食うか食われるかでできている。野生は弱肉強食であることはもちろん、日常をいかに気持ちよく生きられるかは、邪気を食えるかどうかにかかっている。邪気は「はらうもの」と理解されているが、これはあまりにも邪気が大きい場合、食うよりも食われてしまうので、まず邪気をはらうことによって、相手を弱毒化してから食っているにすぎないと思う。
邪気をはらうことは、戦いのなかで弱毒化のウェポンを持つことだ。このウェポンによって邪気に立ち向かっていくことも一つの手段であるが、これは”いかにうまく生きるか”という点に焦点があたっている。
私は美学上、どちらかというと素手で邪気に立ち向かい、”いかに自分が強くなれるか”という点に焦点を当てて生きたい。弱毒化した敵よりも、強大な敵のほうが、倒したときの経験値は大きい。かつて、毎日スワイショウをして、なるべく気持ちよく過ごそうと心掛けていた時期もあったが、そのときに感じていた違和感は以上のようなものであった。
しかし、弱毒化して体内に取り入れることは、考え方としてはワクチンのようなもので、生存戦略として理にかなっているともいえる。実際、邪気を弱毒化することを頑なに拒み、毎日、敗北者となって惨めな気持ちで生きていたら、負け犬癖が染みついて、簡単に勝てなくなってしまう。そうなるくらいならば、ほどほどに弱毒化しつつ、自分に倒せるレベルに調整するのが賢い人間のやり方だろう。
そもそも、今は戦おうとすらせず、最初から白旗をあげていることも少なくない。ほんとうは、戦えば強いしちゃんと勝てるのに、どうしてか戦う選択肢が見えなくなっている。自分が戦えることも、そもそも戦いがあることすらも忘れている。だから、邪気を食うより、はらうしか選択肢がない。しかし、弱毒化はあくまで手段であり、食うことを忘れてはだめなのだ。
弱気になれば、小さな虫にもやられてしまう。しかし、眼に力を宿せば、太陽にでも向かっていける。我々は、宇宙よりエネルギーを授かった、宇宙戦士であることを忘れてはならない。このエネルギーは戦うためにある。
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