金を受け取らせることで恥をかかせる気がした。自分が金を払うことも恥ずかしかった。[859/1000]

何かを頂いたら何かをお返しするのが、村の人付き合いである。黒豆をもらったら、翌日には、庭先で育った柿を持っていくのである。村は情だけで成り立っていると思われるかもしれないが、実は形式を重んじているというのが、この数ヵ月、村の生活者となった私の抱く印象である。

われわれは、存在そのものが力(エネルギー)である。人付き合いは力の交換に他ならない。労働者は、肉体と精神を雇用主に捧げる。雇用主は、その見返りとして賃金を差し出したり、労をねぎらったりする。無論、物質の存在も力によって成り立つ。金は物質的にはただの紙切れであるが、われわれが信じる価値のために、人間の命を奪うほどの力を持つ。その壮絶なエネルギーのために、付き合いを間違えれば人生を食われる。

 

資本主義社会の金のやり取りに、冷たい印象を抱くのは、そうならざるを得ないからである。金の持つ壮絶な力に対し、ドライにならなければ人は感情に溺死する。普段は、温かく、心ある人間も、街の店で商品を買うときには、ロボットのように無機質に金を差し出すのはそのためである。

村に抱かれる温かい印象は、不用意に金を介さないことによる知恵から生まれている。人付き合いの原理である力の交換を、金の力だけで解決しないという人間的努力の賜物でもある。私はこの数ヵ月だけでも、世話になる農家に色んな借りを得た。一トントラックを借りたり、野菜を貰ったり、ガソリンを貰ったりしたこともあった。その都度、ビールや食べ物を買って礼をするのだが、一度だけ申し訳ないことをした。

米をいただく対価として、金を払うと申し出たのだ。金を払えば、一定の価値は担保される。ちょっとした野菜を貰うだけならまだしも、お米をいただくとなればちゃんとお礼をしなければと思ったのだ。実際、金を払った。だが、すぐに悪いことをした気持ちになった。金を受け取らせることで恥をかかせるような気がしたのだ。自分が金を払うこともなんだか恥ずかしかった。何の人間的な努力もせず、資本主義のロボットとなることは、村の人間たちがなるべく避けたがる道である気がした。おれたちの存在のエネルギーを蔑ろにしているようで、人間の誠実さに欠けるようで。

私は力を信仰する。力の信仰は人間を人間たらしめる。その道を違わぬよう、人付きには真っすぐありたいと願う。

 

2024.10.26