「ところで義兄んにゃ、こんな山の中で独りでランプ生活をしていて恐くないのか?」
と、一番知りたかったことをいきなり尋ねてみた。臆病な俺なら、一晩でも耐えられない。すると義っしゃんは、平然として言った。
「怖いごとなんて何もねえ。俺はない、この八溝の山が好きなんだわい。こんなにも好きなんだがら、恐いごとなんてあんめ。好きなこの山でよ、毎日暮らしていげんだもの幸せだっぺ。この山で、好きな物捕って、食って、余ったら売って金にしてない、俺にはこれが一等合っているような気がすんだわい。(後略)」
小泉武夫「猟師の肉は腐らない」
はじめて夜の森で寝たときはとても怖かった。イタチかキツネか、啼きながら遠くから近づいてきては、小屋のすぐそばを通りすぎていく。さすがに熊は出ないだろうが、暗闇に覆われているというだけで、身は危険に対して敏感となる。だが、そんな日が当たり前になっていくと、次第に怖いと思うこともなくなっていく。獣の啼き声を聞いては、子と生き別れた母の叫びを想像して痛々しい気持ちになったり、反対に、親とはぐれた子を想像して「おれたちはたくましく生きよう」とエールを送るのだった。
森で生活するうちに、人は森の一部となっていく。その指標となるのは匂いである。洗濯物に染みこんだ、あの刺激的な、人工的な香料は抜けていき、服は森の土と川の水を吸収していく。外から持ち込んだ匂いは消え、身に着けるものが土地の香りに満たされるようになる。そんなとき、私は森の一部に溶け込めたようで、とても嬉しい気持ちになる。猪や鹿が、罠や鉄砲の人工的な匂いを敏感にかぎ分けるように、私もまた、外からの人間の匂いをかぎ分けられる気になるのである。
森で生活して1年近く経とうとしているが、私もまた、この生活が自分に一等合っていると自覚する。久しぶりに、人の密集した東京の街の映像をみると、どこか生理的に拒絶する感覚をおぼえるし、そういう意味では野生動物の感覚に近づいているのだと思う。洗濯は川、暖は焚火でとる。野菜は畑で採り、肉は山で狩りをすることが当たり前となる。身のまわりの慣習が変わり、常識や考え方が変わっていく。かといって、日本を慕う心を失ったわけではなく、むしろ野性とともに信仰は強まっていくようである。
私はこれからますます拡がっていく森の生活が楽しみでならないし、もし、街での暮らしに疑問を抱く青年がいれば、思い切って飛び込んでほしいと願うのである。
2024.9.10
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