安心を得る代わりに、野性はじりじり死んでいく。[760/1000]

畑の仕事を始めた。夜明け前の朝3時、4時から、包丁でキャベツをひたすら刈穫っていく。初日はどしゃぶりだった。上下カッパと長靴で、ずぶ濡れになりながら、キャベツを収穫していく。なんとも農夫とは野性的だと感動した。

「日本国」は眠らない。朝採れた新鮮な野菜を消費者に届けるために、まだ夜ともいえる時刻から農家はずぶ濡れになっている。漁師や運送業も同じだ。最終消費者の都合にあわせて、日夜、経済のレールは稼働しつづける。

 

自然に触れたいという願望を抱える人間は多い。だが実際は、「日本国」で眠らざるをえない、人間に眠る野性を解放したいという願望にも聞こえる。無論、ここでの「日本国」とは一つのレイヤーを指す。元来、「野生」には命の保証はどこにもないが、「日本国」ではあたかも老後まで生が約束されているようだ。法律があり、幻想があり、常識がある。そのなかで安心を得る代わりに、野性はじりじり死んでいく。そうして、限界に達したとき、人間は保障のない荒野へ赴き、命に危険が迫る感覚を取り戻しにいく。

 

畑の仕事は「日本国」レイヤーに在りながら、「村」レイヤーの名残がある。人は近い。皆、肌の血色はよく、いかにも健康人だ。ひと仕事終えれば、野菜がもらえる。さっそく、採れたてのキャベツを塩茹でして玄米のお供にしたが、これが最高に美味かった。もとより、金を稼ぐ気で始めたが、仕事というよりは、手伝いをしている感覚に近い。「村」に残る感性は、いまだ保守的である。その点、古いものを慕う私には健全である。

 

それにしてもここ数日、私が無意識に朗読しているのは、夏目漱石「草枕」であった。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

何の意味はない。ただ、森の隠者の冬を越し、久しぶりに人の世に還ると、それらしいものを詠ってみたくなったのである。

 

2024.7.18

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