昨冬、電源が壊れ、電子機器が使えなくなった。スマホもない、パソコンもない。森で隠遁する私の連絡手段は、車のエンジンでかろうじて充電できた携帯電話だけだった。これを一週間に一度だけ確認した。その他、外界との唯一のかかわりが、野菜と肉と米の買い出しである。そのとき確保した古新聞で、世間で起きたことを一か月遅れで知ることができた。
はじめ、連絡が取れないことを母は不安に思った。死んでいるのかいないのか分からないと言う。だが、考えてもみたまえ。携帯電話が普及するまでは、これが当たり前だった。生きているのか死んでいるのか分からない。そんな中、たまに手紙を書いたり、ある日突然、電報がやってきたりした。手紙の往復には時間がかかる。その間、胸を躍らせ、または憂い、忍び忍ばされた心が詩となった。
深みに入るには力がいる。便利なものに慣れ親しむほど、それを手放すのは容易ではなくなる。私が電子機器を手放せたのも、不意に電源が壊れたおかげであった。最初は悲しんだが、壊れなければ、森の隠遁生活は中途半端なものになっていただろうと思う。なんとなく快適な生活は、変えたいと思っていても、惰性でどこまでも進んでいく。意志と力で進むのは良い。だが、無力と惰性で進むのは生命に反する。
変えるには力がいる。だが、壊れてしまえば問答不要に解放される。災害で家を失うことは不幸である。だが見方を変えれば、大きな転機となる。キリスト教徒もまた、虐げられ、迫害され、肉体を奪われたからこそ、永遠の灯を手にした。安楽に強烈な信仰は生れない。朽ち、壊れ、死んで、土に還る。ゆえに前に進む。力を得て、前に進む。
2024.7.16
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