鞭の苦痛で身もだえするのが、徳だと思っている人々もたしかにいる。そして、あなたがたは、こうした人々の叫び声にあまりにも耳を傾けすぎた!
またはほかの人たちは、自分たちの悪徳がなまけるのを、徳と称している。かれらの憎悪や嫉妬が手足をのばして横になるやいなや、かれらの「正義」は目をさまし、寝ぼけ眼をこする。
ニーチェ, 「ツァラトゥストラはこう言った」
教会が朽ち、天皇が存在の意義を失った今、俺たちの頭上には大きな青空が広がる。さまよう旅人は天の声に耳を傾けるが、その声はすぐ、街の騒音に掻き消されてしまう。今日にも、山に棲む聡明な隠者はきっと世界の何処かにいるだろうが、彼らが街に下ってくることは決してない。ツァラトゥストラは、まさに、人々に教えを説くため、山を下った稀有な隠者であった。今日の隠者に代わって、旅人に救いの手を差し伸べる、スピリチュアルボディーである。
古いものは壊れるに易く、守るに難し。今日、破壊と創造を謳うことの胡散臭さは、その空虚にある。政にしてみても、保守も革新も、元は国を思う志士たちだったはずだ。国を思い、憂う心があるのなら、右だろうと左だろうと、人間の態度としては十分である。そう言えてしまうほど、今日、魂に生きることは意味のあることだ。
私が古いものを重んじるのは、頑固者であるというよか、道理に従っているにすぎない。破壊と創造は安易に語られるが、果たして現代人に、破壊するだけの礎はあるだろうか。革新はいつも、古きものに忠実であるところからはじまる。ちょうどツァラトゥストラの言葉を借りれば、それはラクダのように、ただ耐え忍ぶ存在である。次いで破壊の獅子が生まれ、創造の幼子が生まれる。彼ら本物と言える存在は、例外なく歴史の重みを負っている。革新、創造、進歩もまた、そうあってはじめて愛で満たされる。愛を失ったものを空虚というのだ。私は愛のある世界で死にたいと願う。
2024.7.9
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