『自然には「偽りのない美しさ」があり、偽りのない美しさは「人の偽り」をほどいてくれる。』
テントで生活を始めて、4か月が経とうとしています。
ここしばらくは、朝焼けをの下で1日を始め、星空を見上げては1日を終えることが習慣になっています。
先日の晩、いつものように空を見上げると、ぼんやりとした満月が浮かんでいました。
いつも見る月よりも少し小さいけれど、綺麗な形をした満月でした。
満月の正面に腰を下ろして、心を委ねるように眺めていると、
次の瞬間、あまりの美しさに、目から一筋の涙がこぼれました。
「あれ…泣いてる」…自分でも驚きました。
以前、虹を見て涙したことはありましたが、月を見て泣いたのはこれが初めての経験です。
この日を境に、私は自然がより一層好きになりました。
自然が好き、という人は多いですね。
もちろん、私もその一人。
けれども、「どうして自然が好きなの?」と問われたとき、「癒される」の一言で粗雑にまとめられてしまいます。
一体なぜ、私たちは自然に美しさをおぼえ、時に涙するのでしょうか。
1つの考えとして、
- 私たちが自然を見て癒されるのは、普段『不自然』に生きているから
- そして不自然に生きていることに疲れているから
なのかもしれません。
自然はどこまでも『自然』で、見栄をはることも、嘘をつくことも、誰かを貶めることも一切ありません。
そんな自然の「自然さ」に、自分の中の「不自然さ」が正されるような感覚を私はおぼえるのです。
冒頭でも少し書いたように、私はいまテントで生活をしながら、自然と隣り合わせで暮らしています。
山奥の自然の中で生活しながら、お金を稼ぐためにホテルで働き、また自然の中に戻ってきて寝るのです。
そんな自然生活記を踏みながら、自然観を綴っていきます。
どうかこの記事を通じて、自然を愛する人、自然に愛される人が、一人でも増えますように。
Contents
1 自然が好きなのは、心の不自然さを正すから
人も本来は「自然」の動物である。
自分が自然の一部であることを自覚できたとき、人は「自然」に生きられる。
緑に包まれた壮大な山や、海を見て、「やっと戻ってきた。」「ここが自分の居場所だ。」と感じることが、私にはよくある。
先日は、用事で訪れた新宿から、現在テントで生活している山梨の小さな町に戻ってきたときが、まさにそうだった。
- 虫の綺麗な音色
- 広い青空と綺麗な雲
- 壮大な山々
- 西日に光る田
- 夜空にうつる満点の星空
- 心地よい新鮮な風
東京から帰ってきたのは、夜の8時。
こちらの山道は、街灯が1つもなく、一寸先は真っ暗で何も見えなかった。
この真っ暗な山道を、1時間歩いて帰られなければならない。
正直、夜の山道を歩くのは怖かった。
けれど、歩き始めて、空を見上げると、そこには満点の星空があった。
耳をすませば、虫たちの鳴き声。
全身に意識を向けると、秋を感じさせるちょっぴり冷たい風が顔を優しくなでるのが分かった。
気づけば、私の心は「恐れ」ではなく、「癒し」を感じていた。
自然の美しさが、恐れを打ち溶かした、決定的な瞬間だった。
この「戻ってきた!」という感覚は、『自然と同化する感覚』に近いのだと思う。
私たちは美しい自然にふれたとき、無我に近づく。
我が弱まるにつれ、自分と自然との隔たりはなくなっていく。
大きな自然を見て、「うわーーーすげーーー!!!」と感動したとき、小さな悩みがどうでもよくなる経験がある人は多いだろう。
これは、「我」が弱まり、付随して「我を悩む」ことから意識が離れたからだ。
美しい自然には、そんな魔法の力がある。
よく、「人間の愛は1つに繋がっている」と言うけれど、それは人間同士に限ったことではないのだと思う。
人間も山も海も他の動物も、実は宇宙から見れば、同じ「生命」で、同じ「自然」だ。
動物の中で唯一、文明的な暮らしをしている私たち人間だって、実は空や海と何ら変わらない、ただの「自然」だ。
そんなことを感じられたとき、自分の中の「不自然さ」は消えていく。
見栄や嫉妬、強がり偽りが消え、ありのままに生きられるようになる。
もしそんな感覚に共感してくれる人がいるなら、その方はきっと私と友達になれる。
2 自然が好きなら自然に話しかけてみることだ。
美しい自然は私たちの心から、「言葉」を引き出す。
その言葉は、『今自分が一番必要としている美しい言葉』だ。
「自然が好き」という人は多いけど、「自然に語りかける人」というのはあまり聞いたことがない。
ただ、もしそんな人がいるなら、私はロマンチックだと思う。
先日、私は生まれて初めて、月に語りかけることをした。
テントの横に座って、月を見上げながら、「今日、お前はどんな1日だった?」って。
そのとき私は再び、不思議な体験をした。
自分の首をしめていた観念や、自分への労いの言葉が、あふれるように出てきたのである。
- 「今日は苦しかった。」
- 「私は本当にあれが嫌だったんだ。」
- 「本当はこうしたかったんだ。」
- 「本当によく頑張った。」
人が自分を赦せたとき、「ああ、私ってそんな風に思ってたんだ。」という気づきを必ず踏む。
不自由な思い込みや、不自然なしがらみから、自由になれる。
月に話しかけた時に、それが起きたのだった。
これはきっと、
月が、自然が、どこまでも「自然」だからだと思う。
純度の高い自然さは、純度の低い『不自然な心』を、自ずと浮き彫りにする。
自分に正直に生きている人の前では、嘘をつけないのと似ている。
嘘のない正直な自然に対して、私たちは嘘をつくことはできない。
だから自然に向けて放つ言葉は、いつも正直なのだ。
ずっと言いたかったけど言えなかったことが、ポロリと何の抵抗もなく言えてしまう。
自然に向けて言葉を放った心はどうなるか。
それはもう、かぎりなく澄み渡る。
実は、自然に向かってポロリと出た一言こそ、今の自分にとって一番必要な言葉だったりする。
そんな美しい言葉を自然は引き出してくれるのだ。
3 自然が好きなのは、自然は愛にあふれているから
いかなるときも、人を受け入れる温かさを愛というならば、
自然ほど愛にあふれた存在はないだろう。
世の中には、手のひらを反すように、態度を変える人が一定数いる。
上手くいっているときは、近しい関係だったのに、何か不都合があると、裏切るようにどこかへ行ってしまう。
そんな現実もあってか、私たちは絶対的な心の安寧を、どこかに求めている。
それは多くの場合、家族だったり、パートナーだったりする。
ただ、自然もその種の安寧であることを、覚えておいてほしい。
自然は私たちの言葉を黙って聞き続けてくれる。
どんなに惨めなときも、どんなに苦しいときも、いつも決まってそこにいてくれる。
「今日は気分が乗らないから」と、月は空に昇るのをサボりはしないし、
「立ち続けるの疲れたから、寝させてもらうわ」と、樹木が横になることもない。
自然は、どこまでも律儀で、正直者で、愛のある存在なのだ。
テント生活をしていると、そんなことがよく分かる。
私のテントには、私の帰りを待ってくれている家族やパートナーはいない。
私のテントは空っぽで、見た目のとおり、私は孤独だ。
けれどその代わり、月や星、そびえたつ木々が待っていてくれる。
自然の中で生きる私は、彼らとともに1日を終える。
そんな生活を4か月おくっていると、いつしか彼らが家族のようなものに思えてくるのだ。
「自然が好き」という人は、きっとそんな親近感をおぼえていると思う。
自然は、素直になったすべての人間に、愛情深く接してくれる。
誰も信じられなくなったときは、自然のもとに行けばいい。
一人になりたいときは、山に行って自然に包まれればいい。
自然の大いなる愛を受け取れば、力は湧いてくるから。
4 自然が好きなのは、自然のように優しく生きたいから
汚いものに触れつづければ、心はどんどん汚れていく。
逆に、美しいと感じられるものに触れつづければ、心はどんどん美しくなる。
自然が好きな人が多いことって、すごく素敵なこと。
「自然が好き」って「自然のように優しく生きたい」の願望の裏返しだと思うから。
意地悪に見える社会も、本当はみんな、優しく繋がりたいだけなんじゃないかと思う。
自然の優しさにふれると、自然のように優しくなれる。
自分に対しても、他人に対しても。
私はもう少し、テントで生活を続けることにします。
9月の時点で、山の上は既に寒いですが、冬の自然とも出会いたくなりました。
地球上には、どれだけの自然があるのでしょうね。
そんなことを想像するだけで、なんだか今日も生きられそうな気がする。
KYOです。
本当にそうですよね。自然に触れ合うとふだん見えないものが見えますよね。
台風の後の停電で それがよくわかりました。
停電であまり眠れないときに 外に出てみたら 普段見られない、夜の美しさがありました。
今は 色々使えなくなったので、こちらでしかコメントできませんが悪しからず。
KYOさん、こんにちは!
こちらでのコメントも大歓迎ですよ!
停電が回復した後、あれからの調子はいかがですか?
停電の中の、夜の美しさですか…!
暴力的な自然もあれば、美しい自然もあることがよく分かる貴重な経験でしたね。
そこに意志を見るのかは、人それぞれの自由ですが、私は自然が私たちの人生を豊かにするものだと、信じています(^^)
どうか、健康にだけはお気を付けください。