新潟県上越市の柿崎という小さな町にいる。人口1万人に満たないこの町はとても落ち着く。
海辺で起きると、朝焼けに染まる淡い海と向き合うような形で、釣り人が10人ほど見える。波の音が穏やかで、鳥のさえずりも聞こえる。潮の香は思ったよりしない。それよりも、夜通し焚いた、蚊取り線香のお香の匂いが鼻にずっと残っている。
こういう生活の場を見ると、こんなのんびりとした生き方もあるものなんだなぁと感心する。当たり前だけれど、街で現代的に生きることも、田舎で自然の暮らしをすることも、山でハンモックに揺られて朝を過ごすことも、朝焼けの海でのんびり釣りをすることも、全部、個人の自由と選択で成り立っている。
どんな生活を選ぶかは、全部、自分で決められる。日本には「ここにいなきゃダメだ」とか「これをしなくちゃいけないのだ」とか我々を束縛するものは何もないのだから。でも、あたかもそんな束縛があるように錯覚する。「これをしなかったら死んじゃう」みたいな短絡的すぎて笑っちゃうほどのロジックでなぜか自分を縛り付けてしまう。
心配しなくても死なない。
いよいよ、念願の釣りデビューを果たした。
釣った魚を自分で捌くこと、釣った魚で自給生活することに、ずっと憧れていた。憧れを形にするときがきた。こんなことでも緊張する。「魚に情が移ったらどうしよう」とか「魚を苦しめずにやれるか」みたいなことを考えてしまう。命を奪う瞬間が一番怖い。しかし、憧れを憧れのままにしておくなんて、何のために生きているのだ、と問う。やるなら今しかない。今以外は存在しないのだ。そう気合いを入れて、動き出す。
釣り竿とリールは、上越市の釣具店を3店舗ほどまわって、一番安かった初心者セットを買った。アジを釣るためのサビキ仕掛けと、パウチ状で使いまわしが良さそうな餌も買った。これで大体5500円。知識も経験も0だと店員さんに伝えたら、ジェスチャーを交えながらも竿の投げ方とかも教えてくれた。
道具は良いものを扱いたいが、5000円の竿で釣ったアジも、1万円の竿で釣ったアジも、アジはアジであることに変わりない。値段が2倍になったからといって、釣果が2倍になるわけでも、サイズが2倍になるわけでもない。大物なれば話は変わる。しかし、アジに関しては5000円の竿で十分足りている。それよりも竿を使い倒すことのほうがずっと大事だ。使い倒せば経験値はたまるが、使わなければ5000円の竿でもただの棒切れになる。
柿崎の海についてビーチを歩いていると、一人おっちゃんが上裸で釣りをしている。私が試みようとしているサビキ釣りは、堤防からやるのが一般的だと教わっていたので、ビーチから釣るおっちゃんは別の魚を釣っていると素人でも分かった。
しかし、釣りは釣りなので、何か面白い話が聞けるかもしれないと思って、「調子はどうですか?」と近づいていった。おっちゃんはキスを6匹ほど釣っていた。30分前からしているとのことだったので、5分に1匹のペースで釣れていることになる。
私がさっき釣り竿を買ってきたばかりの初心者だという話をすると「教えてやるから持ってきな」と言うので、私は師匠を得たようで嬉しくなって、急いで車に竿を取りに戻った。
結果から言うと、1時間ほど釣りをして、私が釣れたのは2匹だった。面白いように釣るおっちゃんの横で、私はほとんどの時間を、絡まった糸を必死に解くことに費やしていた。おっちゃんは生まれも育ちも新潟で、こうしてほぼ毎日釣りをする生活を50年続けているらしい。実力の差を思い知った。エサ1つつけるにしても「そんなもたもたしてたら、魚どっかいっちまうぞ」と茶化されるくらいに、私には時間がかかった。
釣りをしながら陽の沈む海を眺めていると、涙がこぼれてきた。広い海におっちゃんと2人。今もまだうまく言葉にできていない。ただ感動していた。不思議な感覚だった。ここに打ち寄せる波がある。潮風がある。夕陽がある。魚を釣っている自分がいる。手元のバケツには2匹のキスが泳いでいる。砂の上に立ち、言葉を発することなく海を眺めている。ただここにそのままが在るという感覚そのものが、ただここにそのまま存在していた。不思議な感覚だった。それがとても美しく感じた。そして温かかった。
キスは3枚におろして刺身で食べた。自分で釣った魚は美味いという。私の場合も例外ではなく、思わずうなり声が出た。
調理しようとした時も、まだバケツの中で泳ぎ回っているので、どうやってとどめをさそうかしばらく考えたが、キスは気づいたら動かなくなっていた。魚を締める経験は、ひとまずお預けとなった。
今日で海の生活を少しだけ知った。ほんの少しだけ。けれど、このほんの少しが、今の僕にとってはとても大きい。
海の生活はまだまだ続く。マリンブルーな穏やかな潮風を言葉に乗せて。
じゃあね、ばいばい!!!
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