年末はテント生活を中断し、実家に帰って家族3人と1年ぶりに再会した。
父、母、兄の背中を見て、もしこの3人がいなかったら、俺はどう生きているだろう、とふと想像してみた。
「ああ、きっと自分は今よりも一人だ」と思った。
というより、「今までは、一人で生きているようで、一人じゃなかったんだ」と思えた。
一人で生きているようで、心のどこかではしっかりと支えてもらっている。
そんな存在って、自分では気づいていないけど、意外と多いのかもしれない。
誰しも、孤独に押しつぶされそうになる経験の1度や2度はあると思う。
中には、この瞬間歯を食いしばりながら、孤独と闘っている方もいるかもしれない。
孤独に押しつぶされそうなときほど、人の器量が試されるのだと思う。
「あなたは大丈夫」と伝えてくれる人がいないとき、「自分は大丈夫」と信じることができるのは、自分だけだ。根拠なんて、なくてもいい。
孤独から逃げちゃだめだ。
押しつぶされそうなときほど、
ただ祈るように、信じるのだ。— とむ(テント生活7カ月目) (@tomtombread) December 29, 2019
孤独の中にいるときこそ、人の器量は試されるのだと思う。
孤独に耐え切れず快楽に溺れるも、孤独の中から自分を生きる活路を見出すも、すべては器量しだいだ。
自分を生きることから逃げるな。
これは神様に与えられた、器量を磨くための試練だと思え。
私はいつも、そう自分に言い聞かせる。
1人ぼっちに感じても、大丈夫だ。
私は大丈夫だ、そう信じて前に進もう。
孤独に押しつぶされそうな時ほど「本当に私は大丈夫か」と信念が揺らぐ。たとえ根拠がなくても「私は大丈夫だ」と信じてやりたい。
独り力強く歩む過程で、人の器量は磨かれるのだと思う。
本物の出会いが待っているのだと思う。
そのまんまで、大丈夫だ。 https://t.co/j2VQtSazzJ pic.twitter.com/N8DdGSlGfY— とむ(テント生活7カ月目) (@tomtombread) January 3, 2020
1 孤独に押しつぶされそうなら、自分が信じてやるしかない
「あなたは大丈夫だよ」と寄り添ってくれる人がいなくても、「私は大丈夫!」と信じてやること。
根拠がなくてもいい。例え信じられなくても、思い切って信じてやることが、強く生きるということだ。
テント生活を始めた当初は、「これから先、俺はどうなるんだろう」と、孤独に押しつぶされそうになることが、多々あった。
今でもそんなことは、たまにある。
ずっと森の中に一人でいると、「すぐ近くに、心の内をすべて理解してくれる友がいたらいいな」とか、「すぐ隣に、全てを黙って受けとめてくれる女がいてくれたらいいな」とか、思う自分がいる。
確かにそうだ。誰かが近くにいてくれたら、そんな心強いことはない。
けれど、孤独から逃げるように人と繋がり合えば、その人がいないと何もできない人間になる。
人は弱いから、人と関係を築くことも確かだ。
けれど、孤独から逃れるために、都合よく人を利用したいだけなら、そこに愛は生まれない。
私には、利己的に人と関わってきた過去がある。お互いの利益を出し合う関係性は、とても脆かった。
どちらかが利益を出せなくなれば、その人の利用価値はなくなるのだから、「裏切り」が生じる。
相手を気遣ったり、配慮したりするのは、自分が利益を得るためだった。
裏を返せば、「利益を出せなくなった時、私は裏切られる」という恐怖をずっと抱えていた。
私はそれで人を傷つけたこともあるし、傷つけられたこともある。
もうこんな、損得で成り立つような貧弱な人間関係は築きたくない。
利益と利益だけで結びつく付き合いよりも、相手を思い合える深いつながりを大切にしたい。
孤独の時間の価値はそのためにあると思う。
孤独の中にいる自分一人を愛せなくて、大切にしたい友やパートナーを本当の意味で愛することはできない。
今大切にしたい人、いつか大切にしたい人のためにも、孤独の中にいる自分をまずは愛すのだ。
窮地に陥ったとき、どれほど自分を信じてやれるかが、その人の器なんだと思う。
「もう俺だめだ。」と信じられない時に、「それでも俺は大丈夫だ。」と信じてやることが、その人の強さなんだと思う。
これは、神様に与えてもらった有難い試練なのだと思う。
だから負けるな!
堂々と自分を生きよ!
強い人間になれ!
2 孤独に押しつぶされそうな時にこそ、誤魔化さずに生きよう
「孤独な時間」は「孤独じゃない時間」のためにある。
孤独を誤魔化してしまったら、孤独じゃない時間も誤魔化してしまう。
誤魔化さずに生きよう。
今はテントで生活しながら、来たい!と言ってくれた人を受け入れて、話を聞く活動?をしている。(⇒一人になりたいときは、心が正直になりたいとき。)
この生活も、2019年2月前半で終わる予定。
それからは、オーストラリアを横断する。
2019.12.26 (日記)
2月半ばから、オーストラリアを一人で横断する。
正直、今はワクワクなんて、ほとんどない。むしろ不安しかない。
知らぬ土地を一人で歩くことも、横断することも、孤独に襲われることも、どうしようもなく怖い。
いや、怖いからこそ行くのだと思う、行くべきだと思う。
孤独に揉まれながらも、前に進むから、人の器量は磨かれていく。
この旅は、自分を愛し、人を愛するための試練になる。
孤独を恐れて、自分を生きられない男にはなりたくない。
ぬるま湯に浸かったまま、動けなくなる人間にはなりたくない。
孤独に押しつぶされそうになっても、受け止めて、「俺は大丈夫だ」と信じられる強い人間になりたい。
誰かが恐れや絶望の渦中にいるとき「お前は大丈夫だ」と信じられる愛のある人間になりたい。
器量を磨きたかったら、孤独なんてぶっ飛ばせ。
「神様、せっかくいい試練を与えてくれたのに、ごめん。この程度の孤独じゃ、ちっとも手ごたえないや。」と笑い飛ばせ。
弱いなりに、強く生きよう。
誤魔化さずに生きよう。
3 孤独に押しつぶされそうなら、犀の角のようにただ独り歩め。
孤独はいつか終わる。孤独を独り歩みぬいた先には、同じように自分を生きていた人間がいるから。
孤独の僕(しもべ)ではなく、孤独の主(あるじ)になろう。
岩波文庫「ブッダのことば」を愛読している。
以下に紹介する「犀(さい)の角」という省の中に、孤独の中を力強く歩もうとするときに心に刺さる言葉がたくさんある。
一部を紹介。
仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、 諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
貪(むさぼ)ることなく、詐(いつわ)ることなく、渇望することなく、( 見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁(こうまい)・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
もしも汝 が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。
しかしもしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得ないならば、譬(たと)えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
われらは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。
音声に驚かない獅子(しし)のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮(はす)のように、犀の角のようにただ独り歩め。
中村 元. ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)
今孤独なのは、「賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者」がいないからだと思う。
そして彼らに会うには、孤独な道を独り歩んでいくしかない。
孤独な道を歩むしかないのは、彼らも私たちと同じように、孤独だからだと思う。
独り歩んでいた森の枝道が、本道に合流するように、孤独から逃げず自分を突き進んできた者同士だけが、同志として繋がれるのだと思う。
そこに自立した関係性が成り立つのだと思う。
いつまでも理解者があらわれないのなら、待つのではなく、探しに行くしかないのだと思う。
孤独の先に必ずあると信じて。
旅はつづく。
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