穏やかな時間もいいが、頑張らないと満たされない心もある[64/1000]

新潟は妙高高原の小さな公園で朝を迎えた。世界が金色に輝いている。

天気は快晴で、木漏れ日が美しい。肌をなでる風が気持ちが良くて、朝から幸せな気持ちになる。

 

葉がこすれる音、鳥のさえずり、虫の声、水の流れる音。ここの自然は、音が豊富でありながら、お互いを尊重した、いいバランスをしている。

それがあまりにも「自然」すぎて、ここにいると、自分が世界の1つになってしまったような錯覚をおぼえる。

 

人が誰もいなくて、自然の音しかないことから、ここは天国みたいだなと勝手に想像している。

あまりに金色の世界が、浮世離れしすぎていて、自分が生きて、世界に存在しているのかすら、あやしくなってきた。そんな不思議な感覚。

 

誰かと一緒にこの自然を味わえたらと思うが、誰かと一緒にいたら、この不思議な感覚はきっと味わえなかっただろうなとも思う。

 

私が今、1人でいるのは、こんな1人でしか体験できない世界を体験したいからだ。

今、誰かと一緒にいる人は、きっとその人と一緒に見たい世界があるから、一緒にいることを選んだはずだ。

 

私たちは選択の上にいる。ここにある今は、何かしら見たい世界、体験したい世界があって、選んできたものだ。

それを思い出すと、今の自分がどうして今の自分でいるのか、よくわかる。

 

それを見るため、体験するために、今日の私たちの命はある。

今日も太陽が、今日のためだけに昇るよ。今日だけの今日をみにいこう。今日だけの今日をちゃんと生きよう。

 

 

私のほうの体調はいまだ優れず、頭がクラクラしているが、朝からこんな世界を体験してしまうと「私は不幸な人間だ」なんて思うことはできない。

しかし、体調が優れないこともあって「うおおおおおおお!」と元気モリモリな状態にもなるというわけでもなく、「あれ、オレは死んで天国にきたのかな?」と、穏やかにほほ笑むくらいの感じでいる。

 

私は、いま天国のような穏やかな場所にいる。ここを静かに満喫したいという気持ちもあるが、一方で、元気モリモリに動いていたいとも思っている。

 

穏やかも、平和も最高だが、平和すぎても退屈に感じてしまう。

これは人間の傲慢さかもしれないが、命をちゃんと燃やしたいという誠実さでもあるように思う。

 

 

よく陽に焼けて、よく動いて、よく汗を流して、よく笑って、よく歌って、よく踊って、よく玄米を食って、よく眠る。

そっちのほうが、穏やかに生きるより、「今日をよく生きた感じ」はちゃんと残る。

 

人類同志の争いをなくすという意味では、平和は望まれることだが、人間1人の単位で見れば、よく戦って生きた日のほうが、何も戦わなかった日よりも、1日を終えるときの、満足度は高い。

 

我々は、動物である以上、何もせずに手に入れる幸せだけでは、満足できないのだ。

動いて手に入れる幸せを欲している。今日の分の命を燃やさなければ、1日の終わりに、燃焼不良を感じてしまう。

 

 

友人と味噌煮込みうどんを食べるために、多治見から名古屋まで歩いて行ったことがある。車1時間の距離を、徒歩だと半日以上かかった。

足がボロボロで、友人と再会する頃には、もう立つことがやっとな状況だったけど、今晩美味い飯を食べるためだけに、歩いて行った自分を褒めたたたえた。

 

私は1日働いていないこともあって、よく迷子になる。1日のゴールが分からなくなって、どう生きたらいいのか分からなくなる。

そんなときは「今晩うまい飯を食べるためにはどうすればいいのか」を考える。

 

今晩うまい飯を食べるためには、今、どう生きたらいいのか?

迷ったらいつもここ。今やりたいことをちゃんとやって、心のこりがないように、今日を生きるしかないんだ。

 

 

それにしても本当に今日は穏やかで、風が気持ちいいです。

私は少しずつ北に向かっていますが、人に会う前には元気モリモリな自分に戻りたいです。

 

では今日はこれで終わり。

また明日!ばいばい!

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