10日つづけて物を書いたこともなかった私が、663日つづけて物を書いている。しかし、読者の数は右肩上がりどころか、右肩下がりの一方である。そしてついに、地面の底を掠るようになった。このままいけば、1000日に到達する日には、完全な一人である。書けば書くほど人が去る。まるで、不毛な土地から村人が一人、また一人と去っていくように。
私の言葉はそんなにも荒んでいるだろうか。大地を脅かす嵐だろうか。悲しいが、一方ではこうなることを望んでいた。1000日到達の栄光を大勢に祝福されるのは私の柄ではない。高く伸びた木が、最後に雷に打たれてへし折られることを魂は欲する。もっとも、私の木は真っすぐ伸びるどころか、斜めにグニャリと変形している。これは、陽の当たり方を心得ていない者の課題である。
昔の私を知っている人間は、あいつは変わってしまったと思うはずだ。何か悪いものにでも憑りつかれたと思う者もいるだろう。それだけ私の悪意は、現世のあらゆる虚偽と偽善に向けられるようになった。彼らのいうとおり、私は悪霊に憑りつかれているにちがいない。社会のまっとうな生き方から放り出された私は、満たしきれない肉体のために生を逆恨みするようになった。己の力の無さのために、生を必要以上に恨むようになった。
こればかりは、本当にすまないと思っている。振りまかれた悪意は、友と励まし合って生きることの対極にあるものだった。人が離れていくのも頷ける。もし、こんな私に追従する者があれば、きっと彼も私と同じく悪意に満たされている部分があるだろう。その点、私は私から人が離れていったことに安心している。彼らは力ある存在で、悪を退け、善を好む人間であった。
一つ、私は反省のうちに、こんなことを考えてみた。悪意は無力から生じるもので、善意とは力によって生まれるものではあるまいかと。先も書いたとおり、無力のために満たしきれない生のために、生を必要以上に恨むものである。生の要求に応えることができないがために、生を悪く言うのである。
もし要求に応える力があるのなら、悪意によって非難するのではなく、善意によって乗り越えることを選ぶはずだ。それができないから、悪意に染まるのである。その点、悪意は放埓であるし、善意は雄々しいものだ。
一番のペテン師は私であった。私は無力を蔑みながら、己が無力に染まるのを感じていた。今でこそ、ただただ土壌を荒廃させてしまったことを恥じている。世間に対し悪意を振りまくくらいなら、自己のために善意を尽くし戦うことだ。それが、真っすぐ伸びるための、陽の当たり方であろう。
2024.4.12
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