もう誰にも読まれていないかもしれない[662/1000]

もう誰にも読まれていないかもしれない。一人でも読んでくれる人がいればこそ、書きつづける気概を見出せた。だが、ついに俺も愛想をつかされたというわけか。悪かったとは思っている。苦し紛れに紡ぎ出す言葉に悪意がなかったかと問われれば、自信をもってそうだと答えることができない。私は悪意を克服したつもりになりながら、いまだ悪意に支配されたままだった。禍々しき死神の吐息を纏わせた言葉が、陽の下で生きる人間にとって愉快なものであるはずがない。

 

言われるうちが華。読んでもらえるうちが華である。「お前は駄目な人間じゃない」と人様からお言葉をいただいたこともあったが、それでも私は己の堕落を無きものにすることはできなかった。まっとうに働く方々を前にすれば、ろくに働けない私は堕落している、落ちこぼれた人間である。堕落を無きものにして、感情を慰めて生きれば、耳障りのいい言葉に荒波が立つこともなかっただろう。だが私は”感情救済”の名の下に、魂を悶絶させてしまうことを何よりも怖れた。私は魂を喪失した世界では、忘却のほかに、虚無に抗う道を見つけることができないのだ。

 

自己矛盾にも気づいている。落ちこぼれた人間の言葉など、読まれないのが当然である。それでも読まれる可能性を信じたのは、ここに魂を見出そうとするからだ。空虚に耐えられぬ人間は、落ちこぼれた哀れな魂も、友として受け入れてくれるのではあるまいか。そんなことを涙の谷底から期待したのだ。だが失望を飲むうちに、偽善と幸福に悪態をつくようになった。女々しい女々しい、嫉妬であった。

 

私が忘却されたのではなく、落ちこぼれと見なされ読まれなくなったのなら、それは私の望む世界である。価値あるものが価値あるとみなす分別を弁えた人間が増えるほど、私は私の存在意義を失っていく。現に社会では霊性が吹き返しはじめている兆しもある。忘却が人間を覆いつくすなか、内なる記憶が聖戦をはじめている。これはいい兆しだ。私も落ちこぼれを演じる必要がなくなるというわけだ。

 

今日で662日目。1000日まで残すとこ338日となった。早いもので残り三分の一だ。これまで一瞬であった。これからも一瞬であろう。誠に、山本常朝のいうように、人生とは夢のごとく一瞬だ。もしこれを読む人がいたら、私は深く感謝する。ああ、きっといるにちがいない。仮に数字であらわれても、あらわれなくとも、そこにいるにちがいない。それが永遠で繋がるということだろう。

 

2024.4.11

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