私は、この地上で暴力と戦いが終わった時、これで万事が旨くゆく、これからは平和になり、人々は幸福な毎日を末永くおくることができる、と思いました。しかし、その期待は全く裏切られました。戦争が一切を荒廃させるのに劣らず、平和もまた一切を腐敗させるのを、私は見たからです。天の導き手よ、天使よ、教えて下さい、どうしてこうなるのか、果して地上から人類が絶滅するのかどうか、を」
ミルトン, 「失楽園」
満たねば困窮、満ちれば倦怠と、ショーペンハウアーは言う。戦時下では、物に飢えた困窮状態を皆が苦しんだ。戦後80年にもなれば、食えない心配はほとんどないが、倦怠に次ぐ倦怠を、人に悟られぬよう一人静かに苦しみ喘ぐようになった。爆弾が降ってこないからといって、人の苦しみがなくなったわけではない。苦しみは、目に見えて皆で共有される形から、目に見えない個人に閉ざされた形へと変わっただけである。戦争中は鬱になる暇などなかっただろう。いまは誰が自殺しても、その本意も苦しみも本人だけに閉ざされている。
日本人にとって「平和」の言葉が意味するものは大きい。だが、一体なにをもって平和と言うのだろう。戦争を一方的に放棄することは平和だろうか。たしかに戦争がなくなれば、誇り高き兵隊が死ぬことはなくなる。だが、平和のうちに倦み疲れ、退屈に耐えかねて精神を死なせてしまうのなら、ミルトンがいうようにどちらにしろ人間は滅びてゆく運命に向かっているのだろうか。
子供たちは、戦争を経験した爺さん婆さんから、貧しく悲惨な話を聞く。ある者によって意図された反戦教育は「戦争はいけない」という教条を与えるよう仕組まれる。むろん、戦争など起こらないことに越したことはない。だが、魂を骨抜きにした空虚な教育には必ず倦怠がつきまとう。子供たちの無気力な目はどこからやってきたのだ。小中学生の不登校は年々増加し今では30万人となったが、中でも一番多い理由は、いじめではなく無気力なのだ。
戦争経験者の話のすべてが悲惨であるわけではない。戦前は、今よりもずっと静かで温かくて清冽な清い流れのある優しい世の中だったと、語りつづける爺さんもいる。私は爺さんの話を聞いたとき、ずっと本当のことを言っていると感じた。戦争の悲惨さに感情的になるよりも、ずっと胸の内が温かくなるのを感じた。考えてみれば、当たり前だ。前者に湧き起こる感情は「私は死にたくない」であるが、後者に湧きおこるものは「私は国のために命を捧げよう」だからである。
困窮と倦怠の苦しみに優劣をつけることはできない。だが、困窮が力を生み出し、倦怠が無気力を生み出すのなら、私は困窮に陥るほうが罪がないように思える。なぜなら、困窮に死ぬことは他殺であるが、倦怠に死ぬことは自殺だからである。自分で自分の命を絶つなど絶対にあってはならない。
今日、私は力の哲学を説きつづける。素朴なものを愛し、力をもって生きること。無気力を悪とし、力を善とすること。困窮とか倦怠とか書いてきたが、そんなこと本当はどっちでもいい。ミルトンの言う、肉体と魂の絶滅に抗い、肉体と魂をもって生を全うできるよう努めるだけだ。私が人間に課す義務は、たったひとつ、これだけだ。
2024.4.5
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