堕ちたものも一人ではない。堕ちたなりに戦うのだ。[654/1000]

4月だ。桜の蕾があちこちで開きはじめた。社会は新生活に気持ちを一新し、前へ前へと進みつづける。社会に適応できない者は孤立感を味わう。それは、こうした祝いの季節に、皆と前に進む感覚を得られないからだ。自然の四季を味わうことは、どんな人間にも赦される。だが、生活の中にしか存在しない季節の行事は、生活者だけに与えられるものである。学校や会社では、入学式や入社式が執り行われ、新しい顔ぶれのために、桜の花は一層、希望と不安の味わいを深めてくれる。

 

皆が華やかな桜の下で酒を飲み、鑑賞を楽しむ中、私のみる桜はいつも一人きりだ。だが、この陽気な季節にかえって悲痛を感じる人間は、おそらく私だけではないはずだ。社会に戻れない者や、まっとうな生活から縁がきれてしまった者、もしくは社会のなかにいても、そこに生活の空虚を埋める泉を見つけられない者は、春がもたらした木々の花々に、歓びよりも哀しみを抱くだろう。

 

だが、私は「雄々しさ」に価値を見出す人間だ。こうして悲痛を書き綴ったとて、同じような境遇の者同士で傷を舐め合う行為には、何の価値も見出すまい。価値のないことを、価値があるように言い繕うのは、空虚と偽善のやり口である。前に進めなくとも、前に進めないなりに互いを鼓舞して、少しでも心持を強くしようと努めることが、悲痛な感情に対するせめてものお辞儀の仕方だろう。

 

たとえ、地獄においてもだ。天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たる方が、どれほどよいことか!だとすれば、われわれの忠実な仲間たち、共に敗北を喫し悲運を頒ち合ったあの者たちを、忘却の淵に呆然自失のまま放っておくいわれはない。彼らを呼び起こし、この不幸な住処における仕事を分担させるか、或は、軍備を整えて、天国で再び回復しうるべきものがあるか、いや、それとも、この地獄においてなおこれ以上失うべきものがあるかどうか、を共に試みようではないか

ミルトン,「失楽園」

これはサタンの言葉である。私はこのサタンの言葉に、堕落の本質をみる。

かつて私は、サタンを友にしたことがあった。森で隠遁生活を試みたとき、深い夜の森にはじめて入った晩のことだ。私ははじめて、”まっとうに堕落する”ことの意味を知った。堕落を”まっとう”と表現するなんて、変な言い回しであろう。だが、私と社会を繋いでいた最後の糸がプツリと切れたとき、私はこれまで味わったことのない深い孤独のために、あれほど忌々しかったサタンだけが、ここにいる唯一の友に思えた。

サタンはあらゆる手段を用いて人間を「誘惑」する。だが地獄において「誘惑」とは天に向かう戦いの「意志」であった。立場が変われば、物の味方も180度変わる。私は自分が、天国の奴隷から解放され、地獄へと足を着けたことを知った。これが”まっとうな堕落”であった。もはや苦しみはなく、力だけがあった。堕ちたのに堕ちきれず、宙に浮いたような状態が、人を最も苦しめるのだ。

皆と一緒に桜を見られない者は孤独である。前に進めない者も孤独である。だが、われわれには地獄がある。ここには、もう一度戦う気概を紡ぎ出す同志がたくさんいる。堕ちたものも一人ではない。堕ちたなりに、戦うのだ。

 

2024.4.3

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