わが兄弟よ、あなたがひとつの徳を持ち、それがあなた自身の徳であるなら、それは他のびととも共有すべき性質のものではない筈だ。
多くの徳を持つということは、りっぱなことだ。だがそれは重大な宿命である。そのために砂漠におもむいて、みずからを殺した者がすくなくなかった。かれらは徳どうしの戦争と戦場であることにつかれはてたのである。
見よ、あなたの徳のどれもが最高の位置につきたがっているではないか?おのおのがあなたの一切の精神を従えて、それを自分の伝令使にしようとする。おのおのがあなたの怒り、憎しみ、愛における一切の力をわがものにしようとする。
人間は克服されなければならない或る物である。だからあなたはあなたの徳たちを愛しなければならない。―なぜなら、あなたは徳たちによってほろびるであろうから。
ニーチェ, 「ツァラトゥストラはこう言った」
薬を併用すれば副作用が起こりうる。洗剤を混ぜれば毒が生じうる。徳もまた無害なものではありえない。善い人間であろうと、たくさんの徳を抱え込むほどかえって身を蝕んでしまうことがある。世界平和を謳いながらも、心では徳たちが殺し合いをしていることも、そとに振りまく笑顔の下で、徳たちが鬼の形相でいがみあっていることも、日常のいたるところで見かける光景だ。
徳は抱え込むほど、自己矛盾に陥る。己を高めようとする善性と善性が衝突し、割って仲裁に入るか、どちらにも抵触しない落とし所を苦し紛れに見つけなければならない。そうやって徳たちにがんじがらめにされて、疲弊していく者は今日少なくないだろう。
徳とは「神との密約」であった。私はあちらこちらで幅を利かせている俗物を敬遠する。「感謝」が濫用され言葉にされるようになったとき、感謝は本来の徳性を失った。神との密約から、処世術へと堕落した。感謝する人間が得をして、感謝しない人間は損をする。感謝する人間は心が豊かな人間だと思われ、感謝しない人間は心貧しい人間だと思われる。
私は処世術を用いなければならないほど、社会と関係を持つわけではない。だが、生きている人間と話すときに、自己に吐き気を催すことがある。徳の面を被った処世術は腐りかけている。私は腐った処世術を食すとき、自己に悪魔が棲みついていることを自覚する。
だが、浮世から離れ、あらゆる処世術を切り離してみると、一体どれほど徳という徳が私に根づいていただろう。徳だと思っていたものは、ことごとく社会に媚びを売るような薄汚い欲望だった。こう言えば得をする。ああ言えば共感される。そうした狡猾で臆病な迎合主義が、徳を切り捨て処世術を招き入れたのだった。今日、いったいどれほどの人間が「草枕月記」を読んでいるかは知るまいが、たとえ誰にも読まれていなくとも、私は自己との関係のうちに、書きつづけることをまっとうしなければならない。誰にも読まれないことは「損」であるが、迎合して書き綴ったものに、恥以外の何を見つけられようか。
処世術を切り離しただけでも、心は随分と穏やかになる。私はそうして、何もない大地に一本の木を植えた。私はこれを徳と呼ぶことにした。天に伸びてゆきながら、大地に根を伸ばすもの。神との密約でありながら、大地との契りであるもの。魂を重んじながら、身体を重んじるもの。善を定め、悪を定めるもの。
徳とは、何もない大地に堂々とそびえ立つ菩提樹である。ブッタはこの菩提樹の下で、悟りを開いたのではなかろうか。
2024.4.1
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