わたしの言うことを信じるがいい、わが兄弟たちよ!身体に絶望したのは身体であったのだ、―その身体が、こうして錯乱した精神の指でもって最後の壁を手探りしたのだ。
わたしの言うことを信じるがいい、わが兄弟たちよ!地上に絶望したのは身体であった、―そして存在の腹が語りかけるのを聞く思いがしたのだ。
そこで身体は、頭脳を働かせて(いや、頭脳だけではない)―ここに最後の壁を突き抜いて「あの世」に移ろうとした。
しかし「あの世」は、人間にはなかなか見つからないようにできている。あの人間ばなれした、非人間的な世界、それは天国という虚無なのだ。また存在の腹が人間に語りかけるのも、腹話術したる人間の声以外のものによってではない。
ニーチェ, 「ツァラトゥストラはこう言った」
まず最初に、ニーチェを引用する日が続くが、私には死者と会話する霊媒師のように、彼の言葉を現代語訳する力はない。それでは、詩という形式を生涯著作を貫いたニーチェの魂に敬意を示さないことになる。なにより、我と汝の関係において、言葉は必ずしも論理的に理解される必要もない。論理は頭に流れ込むが、詩は海へと流れ込む。私は物質主義者たちが、文学や詩を安易に要約するのを嫌うのはそのためだ。彼らは自分の吸い絞った残りカスを、見せかけの器に盛り直し俗人に振りまく。俗人は得したようで、実際は旬以上のものになった試しがない。最上のエキスは神秘から海へと直接流れ入る。その間に立ち入って、神秘を薄汚れた手で引きずり堕とそうなど、似非霊媒師の冒涜を冒涜とも思わない行為である。
私はこの世だけではなく、あの世を敬う存在であることを忘れないことを願う。あの世だけではなく、この世を生きる身体を持つことを忘れないことを願う。わたしは魂であり身体であることを願う。緊張した魂でも、絶望に取り残された身体でもない。
「生」を悲観する者は、身体を軽蔑する。身体を鞭で虐げたためにあちこちに傷があり、断食のために全身は痩せ細っている。座禅のため足は苦痛に歪み、眠らないため目の下には大きなクマがある。だが、軽蔑者に足りないのは分別だった。神より授かりしパンの存在を知ることだった。身体を絶望のために捨てるのではなく、絶望から救うことだった。苦痛ではなく、慈愛だった。洗練されたパンをこそこそ食べることではなく、素朴なパンを堂々と食することだった。
わたしとは、魂であり身体である。幽霊でも、腐る屍でもない。堂々とした自我である。無垢で力を愛する存在だ。ここに身体が肯定され、魂が肯定される。魂が肯定され、身体が肯定される。平穏な海が広がる。人間の新たな道が拓かれる。私はそう信じるのだ。
2024.3.31
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