人間界の仕事を終えて、自然界に仕えている。はやくも5日が経ち、森の倒木はおおかた片付けることができたが、まだ道のりは長い。「チェーンソーの音は生理的に受けつけん。まるで木が悲鳴をあげているようだ。非効率だろうと己のエネルギーで木とぶつかるのだ!」と宣言してしまった手前、頑固にノコギリだけでやっているのである。1本の木を倒し木材に切り分けるだけで体力はかなりもっていかれる。飯の量は1日2食に増えたが、同時に飯もうまくなった。昨日はあまりの疲労に肉体労働は休息とし、本を読み精神活動にあてた。晴れの日は肉体を働かせるが、雨の日は休息をしながら精神を高めることにあてたいと思うのは、かつて里山に生きた百姓と同じである。
野口晴哉は「体癖」のなかでこう語っている。人間の体は昔より丈夫になったのか。現存する智慧も感情も幼稚なもので、釈迦を超える智も、キリストを超える愛もない。機械をつかって象の持ち上げられない重たいものも持ち上げられるが、機械を使わなければ、昔の人より力を発揮できない。これは体が進歩したのではなく、体の力を補う方法が進歩したというだけである。裸で行動する軽快さがなくなったともいえる。これは果たして進歩だろうか。
私は原始生活に憧れるのである。原始を追い求める欲求は、鎧を脱ぎ捨てたい欲求だ。盲目的に身に膨れた鎧によって、自分の裸体というものが分からなくなってしまった。それなら、仮に不便を味わったとしても、一度すべてを脱ぎ捨て、生身でどこまでやれるのか知りたいのである。これは生命の叫びだと私は思う。鎧の内側で疼いている生命を救出し、むきだしとなって強くありたいと願うのである。これまで何度も書いてきた「砂漠の果てでぶっ倒れ、そのまま死んでいきたい」という願望は、裸となった生命で宇宙にぶつかり、そのまま潔く、野垂れ死ぬことを象徴していると感じるのである。
“同じ人間、誰に劣り申すや”の葉隠の精神である。何の得にもならないやせ我慢であるが、江戸時代の木こりたちの魂を近くに感じながら、己の限界を超えていきたいと思うのである。
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