【生存実験4】金ごときに魂を奪われてたまるか[357/1000]

「金がなくなる=死」という観念は、どれだけの人間を不幸にしただろう。金がなくなったら、死なないか、ホームレスにならないか、不幸にならないかは、人間が常に抱える最悪の想定である。しかし、見方を変えれば、最悪の場合でも、所詮はこの程度なのである。死ぬことも、ホームレスになることも、不幸になることも、運命の仕業だからと諦めて、潔く赦すことができたら、現世はやりたい放題になる。金ごときに魂まで奪われてたまるかという気概を、人間として生きたいのならば持たなければならない。

また、金がなくなったとしても、実際にほんとうに死ぬことが私には想像できない。娯楽や贅沢には、制限がかかるかもしれないが、これは際限のない欲望の問題である。金があるかないかに関わらず本質は変わらない。そもそも、娯楽のために生きているわけでもない。娯楽のために生きて、娯楽のために死んでいくのなら、根本を問いたださなければ、そこに生命の歓喜はない。

今日は金がなくなって、食べ物が手に入らず餓死するというよりも、金にまつわる亡霊に自ら命を絶ってしまうことが多い。神から授かった想像力が自らの首を絞めるが、本当はそんな苦しむ姿も、運命は丸ごと包み込んでくれることをおぼえておかれたい。この亡霊のすべては、社会や常識や生活がうみだした、ただの幻想にすぎない。しかし、幻想のなかにいるうちは、それが真実だと思うことしかできない。ならば潔く社会から弾かれて、堕ちるところまで堕ち、全力疾走して逃避して、幻想を打ち砕き、孤独の荒野を走り抜けて、自己のオアシスを見つけられたいと願うのだ。

 

生存実験と題してこれまで書いてけれど、生存戦略といってもいい。私自身、社会から堕落した弱い人間であり、引きこもりとなって生きることに絶望した愚者である。しかし、弱者には弱者なりの戦略があり、愚者には愚者なりの戦略がある。崇高な魂に向かって生きることは、強者や弱者を問わず、すべての人間に対して神から平等に与えられている。自分なりに生命を救済し、自分なりに魂を救済する道を見つけたいものだ。

今日は、生活保護というものもある。月に14万円貰えるという。今改めてこの数字を知ると、私には大変な衝撃である。なぜなら私自身、生存に必要な金は月に2万もあれば十分であることを知っているからである。万が一、生活保護を受給しようものなら、毎月のようにパリのルーブル美術館に通えるかもしれない。私はそれを必要とする人間ではないのでもちろん仮の話ではある。

国の保障はあてにしない。病気や不幸になれば、これまで宇宙に重ねた業が、精算されただけだと諦めたい。神との孤独な関係のなかで、そのまま静かに野垂れ死に、天に召されたいと願う。しかしもし、今日のようにまだ生かしてくれるなら、そのまま行けという合図だと思い、堂々と生きたいのである。

 

結局、私が言いたかったことは、この一言に集約される。死ぬことも、ホームレスになることも、不幸になることも、運命の仕業だからと諦めて、潔く赦すことができたら、現世はやりたい放題である。金ごときに魂を奪われてたまるかという気概を、人間として生きたいのならば持たなければならない。

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