生きてるかぎり心はずっと祈ってくれてるよ[90/1000]

岩手は葛巻高原にいる。昨夕の瞑想を終えて、5日間におよぶ山ごもりが、幕を閉じた。

終わりだと思うと名残惜しい気持ちになるけど、本当は何も終わっていない。名残惜しさは、その瞬間をちゃんと燃えきった命が、美しく震えているだけなのだ。物寂しい気持ちは、命がちゃんと燃えた痕なんだ。

 

命はいつも震えていて、その震えを頼りに生きれば、道を誤ることはない。

今ここの震えに集中せよ。感じてみよ。燃焼不良を起こしているとき、命はもっと震えたがっている。美しく震えたがっている。

 

【山ごもり瞑想記録】

<day5 朝>

5日目の瞑想。山ごもりでは最終日となるが、今日の瞑想を終えたら、ゴールというわけではない。

日々の実践と継続、ただこれに尽きると感じる。

 

日々の生活は、意識の内側をさまようが、瞑想は意識の外側にある。瞑想は最強だと、とある友人が言っていたが、言いたいことはなんとなく分かる。

「意識とは何か」という問いが生じた。この問いを探求するには、さらなる修練が必要。実践をする中で得た知恵は大事にしたい。

 

風が冷たい、足が痛い、蜂の羽音が耳障り。

不快さに反射的に目を開けてしまいそうになるが、その都度に呼吸に集中し、そのままを観察するように努める。

自然に生じる痛みは、人の騒音と比べれば、まだ生易しい。山から下れば、さらに高い集中力を要する。

 

 

<day5 夕>

山ごもり最後の瞑想。この5日間では一番集中できたように思う。誰もいない、蜂もいない。虫と鳥の声、木々と風と夕陽しかない、とても静かな時間だった。

夕暮れ時、冷たい風が手に吹き付けると、手がかじかむ。冷たい風で、自分の手の輪郭がはっきりとするのが分かる。

 

瞑想は冷たい風のようだと感じた。意識を研ぎ澄ますと、自分の輪郭がはっきりとする。すると世界の輪郭もはっきりとする。

だから瞑想を終えて目を開けると、世界がより鮮明にうつる。

 

鋭い意識で生きる世界と、鈍い意識で生きる世界では、世界の見え方も自分の見え方も、全然違うのだろう。

この5日間を通して、まだまだ心の修練は必要だと感じた。

 

必ず、ここに帰ってこよう。

心を帰す場所はこの世界にもあるかもしれないけど、自分の意識に帰ることでしか帰すことのできないものがある。

 

精神修練をはじめて、思い出している感覚がある。意志と信念が強く外に飛び出したがっているのが分かる。

24歳のとき教員で心を病んで以来、自分の根深いところで再生される言葉が、「お前なら大丈夫」から「お前はどうせダメだ」に変わった。

 

自分で自分を信じてやれないことはかなりのダメージで、この4年間は、何度も鬱をぶり返すような生き方を繰り返してきた。

私自身、なんとなく感じていた、肝心な部分を避けている感覚や、自分に感じていた嘘くささとは、言葉で自分を奮い立たせながらも、根深い所では自分を信じていないことを、私自身知っていたからだった。

 

思うことと言うこと、言うことと動くことのズレが生じれば、人は嘘くさくなる。嘘くさいとは、自分に一致感がないことで、不一致が生ずるのは、欲や感情や感覚に追い回されて、意識の鋭さを失っているからだろう。

 

 

私は性根のない中学生だったが、テニスで県の強豪校に入って、1か月間合宿でしごかれたときは、1ヵ月で人の顔は、こうも変わってしまうのかと両親に驚かれたことがあった。自分でも、眼光が鋭くなって、目に力が宿っている感覚があった。

 

人の性格は顔に出るというけれど、信念は目に宿るのと思う。負けん気、反骨精神、意志、力強さ、エネルギー、優しさ、愛。全部、目の形や、瞳の輝き、眼光の鋭さとなって、人の顔の土台となる。

 

 

お前はどうせダメだと、冷たい言葉を受け取りながらも、お前は大丈夫だと信じたい自分がいつもいた。

冷たい言葉を受け取りつづけても、心はずっと祈ってくれていたと知った時、人は本来、温かい存在なのだと知った。

 

自分はダメだとか、生きる価値がないとか、どれだけ言葉で卑下しても、言葉では侵すことのできない温かさが、その奥にある。生きているかぎり、命が灯しつづける火がある。

だからどこまでいっても、「お前は大丈夫」なのだ。表面的な言葉に惑わされず、現実をしっかり見る。

山も風も太陽も雲も植物も虫も動物も大地も空も、本当に美しかった。

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