穏やかな太陽を全身が歓迎している。昨日の苦しみは、今日にはない。
幸せな人間とか、不幸な人間とかいう言い方は、語弊があるように思う。あたかもその人間の属性として、幸や不幸が備え付けられているような言い方だ。
不安定を嫌う人間は、一度掴んだ幸せを生涯永遠のものにしたくなるが、幸せはエネルギーである以上、波があるのは当然のことだ。「幸せな人間」も、「不幸な人間」も本当は存在せず、本当はただミクスチャーなエネルギーの中を彷徨うように生きているだけではないだろうか。
ある一点に限定して、自分を幸せな人間だとか不幸な人間だとか決めつけて、一喜一憂するのはなんとも馬鹿げたことだろう。もっとも、その馬鹿げたことをしてしまうのが私でもあるのだけれど。
幸せも不幸も波に過ぎないのだから、たとえ今、苦悩の中にいて人生に屈服していても、必ず元気になるときがくる。逆にたとえ今、元気モリモリでも、必ず苦悩は訪れる。サーフィンを思い浮かべる。一つの波を乗り終えては、次の波を乗り終えて、これを人生永遠と繰り返していく。
肝心なのは幸せになるように努めることよりも、不幸にならないことに必死になることよりも、ミクスチャーなエネルギーの中を生き抜いていくことではないか。自分の顔色ばかり伺うことをやめて、ひたすら生命を燃やしていくことではないか。
精神修養 #55 (2h/118h)
一体何に苦しんでいるのか分からなくなる。
瞑想は魂の鍛錬であって、厳しさあってこそ価値があるという姿勢を貫いてきたけれど、今日ばかりは癒しを求める自分がいた。頭の中で起こる問題を頭の中で解決することが難しいように、肉体に起こる問題も、魂的に解決できないか。そこに瞑想の癒しを求める。
屈服しているときは、座禅を組むことすら拒絶する自分がいる。完全に心が折れていたときは、無理やり座ったものの、30分ほどで身体が横に倒れ、そのまま眠ってしまった。
肉体にまったく対抗できる気がせず、ある種のエネルギーが空っぽになったようだった。
エネルギーには、垂直方向から受け取るエネルギーと、水平方向から受け取るエネルギーがあるように思う。両者がぶつかり合って葛藤が生まれる。また、これまで度々言ってきた、「魂と肉体との拮抗作用」というのは、まさにこのエネルギーの衝突で、この衝撃の中で魂は鍛錬されていくように思う。
身体が横に倒れた私は垂直方向からエネルギーが空っぽになっていた。毎日瞑想をして、湖の畔で大きな自然を享受しているのに、なぜこのようなことが起きたのだろう?
垂直方向に働くエネルギーはどうすれば受け取れるのか。分からないことはまだまだ多い。少なくとも、目下のテーマである愛や友情というものは、垂直エネルギーであることはほぼ間違いないように思う。
幸せになることに、後ろめたさを感じてしまうのは、私だけだろうか。
「この瞬間も世界には飢えている人間が大勢いる」「この瞬間も人生に絶望して死のうとしている人間がたくさんいる」みたいな想念が心の端にあって、心から幸せを祝福できなくなる。幸せなことを手放しで喜べず、自分を再び苦しみの底に突き落とそうとする。
そういう意味では私は不幸体質なのかもしれない。しかしこれは、不幸という状態を都合よく利用することで、罪の意識から逃れ、幸せな人間として世界に貢献する責任を放棄しているだけなのかもしれない。不幸になることは楽で、幸せになって働くことのほうがずっと苦しいことなのではないか。
幸せな人間として、罪の意識から自由に生きるには、不幸な人間を救わなければならない。そんな生き方のほうが実はずっと大変なのではないか。
言葉を書いていても、幸せな自分を残すよりも、不幸な自分を残した時の方が、罪の意識からは解放される。これは私自身が、披露された幸せを見ると息苦しくなり、苦悩の底で歯を食いしばっている姿を見ると、勇気をもらうということもあった。
光から発せられた言葉は陰の人間にとって残酷で、陰から発せられた言葉は光の人間にとっては憂鬱すぎる。
どんな人間にも届く言葉を発したければ、地上的な生き方を超えて、天よりすべての大地に雨をそそぐように、魂の言葉で語り掛けるしかないのではないか。それは西洋でいう神の愛、アガペーであって、キリストや釈迦の言葉が時代を超えて、語り継がれるように普遍的なものになる。
どの角度から自分の気持ちを掘り下げても、行きつくところはやはり愛で、ここを探求しなければ人生は何も分からないような気がしている。
本物の愛、厳しい愛、貧しさの愛、孤独な愛、自己犠牲の愛。目下のテーマを愛として探求していく。
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