「武士道というは死ぬことと見つけたり。」これは魂のもつ価値に絶対的な信頼を置き、人間存在のすべての価値を魂の尊厳に置くということ。執行草舟は、「物質主義の完全否定だ」と言い切った。豪快である。
我々の大半は、生き伸びることを大前提にする。物質主義を大前提に生きている。これを真正面から否定し、ひっくり返すには、相当な根性と覚悟がいる。今この瞬間も、私は無意識のうちに物質主義を前提としており、損得勘定を働かせている。生まれてから今日までそれを当たり前に生きてきた私には、骨の髄まで損得勘定が染みこんでいる。
だから、惰性で生きていれば、サムライのように自分の命以上に大切なものに魂を注ぐ生き方はかなわず、人間の「生」の輝きは失われていく。生きることが得で、死ぬことが損になるからだ。肉体的(動物的)な「人生」はあっても、孤高な偉人たちのように気高く生きることはできない。
物質主義は悪なのか?という問いをもった。善悪について私は分からない。しかし私の過去に感じてきた悲しみや虚しさを辿ってみると、すべて物質主義を源流としていることが分かった。偽物だとか嘘くさいとか感じてきたことも、物質主義を発端としていた。何が本物で何が偽物か、私自身の純粋性も含め、これまで言葉にならなかったことに1つの輪郭を見つけられたことは、私にとって大きな救いであった。
私は人間としての尊厳や美しさを大切にしたいのだ。
精神修養 #34 (2h/78h)
精神の自己とは何だろう。目を閉じていても、思考や感情に囚われているうちは肉体の自己であるといえる。
強い意志をどれだけ持てるかが、思考に関与しないところでどれだけ瞑想に集中できるかを決めると考えている。この意志とは、精神の自己から生まれるものかもしれない。だから肉体の自己とぶつかることができる。意志が肉体の自己から生まれるものであれば、肉体の自己とぶつかることはできない。
瞑想中、意識が呼吸からどこかへ行ってしまう度に、呼吸への帰還を試みる。境界線を行ったり来たりする。夕の瞑想はひたすら眠く、ついには耐え切れず、身体を横にしてしまった。(最後の15分くらいは寝ていたと思う)過労で肉体のキャパをこえれば、発熱をすることもある。これはある意味、何か大切なもののために命以上のことをできたのだと言えるかもしれない。
肥大化した欲望に精神が飲み込まれれば、たちまち瞑想どころではなくなるが、本当に強い魂はそれすらも打ち破るのだろうか。
自分の命を「何か」に奉げるということ。自分の命以上の大切なもののために、命を奉げることができたのが武士だった。またかつて時代を超えて語り継がれるような偉大な音楽や文学が生まれたのは、彼らが孤独に生き、芸術に命を奉げたからだった。武士道と騎士道の違いはあれど、そこには等しく人間の美しさがあった。
「一生忍んで思い死にすることこそ、恋の本意なれ。」人は恋の丈に等しい生き方しかできないから恋忍ぶ。かつてはそうして、主や神や天皇を恋い忍び、障害を乗り越える勇気や情熱を得てきた。どれだけ恋忍ぶかが、この世界に「人間」としての生を展開することにかかっている。
命以上に大切なものを見つけることに苦悩する。もしかしたら気づいていないだけで、既にあるものかもしれない。
葉隠の探求に終わりはない。
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