どう自分を捨てるか。[450/1000]

平安、鎌倉時代に鴨長明は隠者として生きた。遁世し、人々から忘れられ、友といえば近所に住む10歳くらいの少年だったという。現世の人間からは死んだも同然に忘れられたが、こうして900年後の人間にも覚えられているのは、いかにも永遠を生きた人間らしい。現世で有名な人間はごまんといるが、永遠を生きられるのは、ほんの一握りにちがいない。靖国の桜の花びらは、国のために戦い死んでいった英霊の魂だという。死んで靖国の桜となった彼らのなかには20歳に満たないものも多くいたが、永遠に向かおうとする気概がその強さを紡ぎ出した。

永遠などクソだ、現世を生きてなんぼだという考えも理解できる。ファウストもメフィストフェレスと契約するとき、「あの世のことは己にはどうでもいい。」「己の喜びが湧き出るのは、この世の、この大地からなのだ」「己の苦しみを照らすのは、この世の、この太陽なのだ」と言っている。地に咲く花の香をたのしめるのはこの世だけであり、秋の陽光に気持ちよくうたた寝できるのも、この世だけである。

確かに、あの世だけになればこの世は浮世離れしていくが、この世だけになってもこの世は虚ろなものとなる。現代は後者によって虚無の病となる場合が多い。信仰が失われた現代は、この世をこの世かぎりの楽しみとして謳歌しているようにもみえるが、耐え切れない虚無を必死にごまかしているようにもみえる。このバランスをとるのは簡単ではなく、私もしょっちゅう浮世離れする。永遠の爪痕を残すような人物は、このバランス感覚が優れているように思う。この世を生きながらあの世を想い、魂を肉体につなぎとめ、幸福を犠牲にしている。

自分の存在が消えてしまうのが怖しく、なんとか生きた証を残したいと願ったこともあった。しかし、それは「自分」が膨れ上がっただけの身の程知らずも甚だしい自惚れであった。形あるものにこだわらなくてよい。そんな見かけだましのものではなく、問うべきはどう自分を捨てるかである。靖国の桜となった英霊たちのように、日本人はこんなにも豊かな自然のなかに還る場所がある。自分を捨てた人間が、かえって永遠を得るのだ。そこにどう向かっていくか。どう自分を捨てるか。あの人間たちにできたのだから、自分にできないはずがない。

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