「夢を諦めるのは、死ぬときではだめだろうか。」
最近、こんな風に思う私は、ずっと夢の中に生きていたいのだと思う。
夢を持つって、人生に「希望」を見出すことなんだろう。
例えそれが叶わぬ夢だったとしても、そんなのは大した問題じゃない。苦しさや辛さの人生の中に、「今日も生きよう」と歩みだす勇気を持てるのなら、それだけで十分価値のあることではないか。
叶えようとするより、持ち続けることだと思う。
— とむ(テント生活5カ月目) (@tomtombread) October 7, 2019
夢には、「感動」が詰まっている。
子供のころから抱いていた、ワクワクやドキドキのような童心、それが形になったものが夢だ。
人は、そんな自分の「子供心」に、勇気をもらっているのだと思う。
人が生きる歓びを感じられるのは、いつも「子供心」を大切にしているときだ。
夢は叶わなくてもいいのかもしれない。
もちろん、私自身、夢は叶えたい。
けれど、夢を叶えるよりも、夢を持ち続けることのほうが、ずっと大切なことかもしれない。
「今日も生きよう」と希望を持ち、今日を命のかぎり精一杯生きることができるのなら、それは今の自分に対して何よりも誠実なことだから。
夢を諦めるのは、死ぬときではだめだろうか。
死ぬその瞬間まで、希望を抱き、自己に誠実に生きることはこの世界では許されないのだろうか。
正直、今の私には分からない。
ただ、1つ言えることがあるとするなら、
「自分」を生きることに勝る、美しい使命なんてこの世にはない
ということだ。
1 夢を諦めるのは、子供心を失ったとき
夢を描いて、追い求められるうちは、”こども”。
「現実は….」と愚痴り始めたら、それはもう”おとな”なんだろう。
私はいま旅をしている。
海外を放浪しては、日本でテント生活をして、次の旅に向けてお金を貯めている。
こんな生活をしていると、「若いうちだけだから楽しんでおき」といった言葉をよくもらう。
善意しかないことは分かるけれど、私はいつも悲しくなる。
「歳をとったら、あなたはもう夢に生きられない」という意図を感じるからだ。
「”大人”ぶるのはやめてくれ」と苛立ちをおぼえることもある。
けど、冷静になってみると、彼らは大人ぶっているのではなく、「大人」なのだと気づく。
きっと、”おとな”と”こども”の境界線はここにある。
夢を描いて、理想を追い求められるうちは、”こども”。
「現実は….」と愚痴りはじめたら、それはもう”おとな”だ。
願うことなら、私は”こども”のまま生きたい。
“こども”のまま、自己に誠実にありつづけたい。
もし、そんな生き方を貫いたら、どうなるのだろう。
最高の幸せを手に入れられるのだろうか。
それとも、お金が底をつきて飢え死にするのだろうか…。
正直私は、怖い。
食べられなくなることも、家がなくなることも、死ぬことも怖い。
けど、もしそんな恐怖を抱けるような生き方ができたなら、いいなと思う。
「私の人生は、偽りの人生ではなく、本物の人生だった」と、胸を張って死ねる気がする。
自分の中の”おとな”は、”こども”にダメだしするためにあるのではない。
“こども”のワクワクに、”おとな”の知恵が掛け合わされるから、夢は叶っていくのではないだろうか。
2 夢を諦めるのは、現実に屈服したとき
現実に屈服したとき、人は心に傷を負い、自分を生きる勇気を失う。
もし勇気を奪われたのなら、またその勇気を取り戻せばいい。
“こども”のまま、夢に生きつづけることは、簡単ではない。
“こども”の自分は、純粋なだけに、傷つきやすいからだ。
私には、教育の夢を諦めた過去がある。
「日本中の子供の可能性を拡げる!!」なんて、大層な夢を語っていた私も、学校の現実に心を病み、教員を4ヵ月で辞めている。
その後は、引きこもりのニートになって、沼に沈んでいくような日々を味わった。
「日本を変えてやる!」なんて生意気な私も、「自分は無力で力のない人間だ」と自分を卑下するようになった。
悲しいことに、人が夢を失い、自分を生きられなくなることは、日常茶飯事に起きる。
- 嫌なことを言われること
- いじめられること
- 裏切られること
- 仲間外れにされること
- 暴力を受けること
- 嫌がらせを受けること
こんな些細なことで、人は「自分」を生きる勇気を失う。
悲しいことに、そのまま命が絶たれてしまうこともある。
もしこの世界に「勇気くじくもの」が存在しなかったら、私たちはどのように生きるのだろう。
- 嫌なことを言われることも
- いじめられることも
- 裏切られることも
- 仲間外れにされることも
- 暴力を受けることも
- 嫉妬し、されることも
- 陰湿な嫌がらせを受けることも
一切ない。
こんなのは理想郷だと分かっているけれど、もしそんな世界があるのなら、きっと自殺する人はいなくなる。
それだけじゃない。
人は皆、夢を持つと思う。
そして、死ぬまで夢を追い続けると思う。
結局、人が夢を持てなくなるのは、意地悪な現実に傷ついただけだ。
夢を持つ勇気を、些細な一言で、踏みにじられただけだ。
もし、そんな意地悪なものを、「現実」というなら、
そんな現実くそくらえ
だ。
確かに、この世界には、私たちの心を傷つけるもの、勇気くじくものがたくさんある。
けれど、「現実」は必ずしも意地悪なものばかりではない。
一歩、外に踏み出せば、私たちの背をおしてくれる人達は大勢いる。
まだ出会っていないだけで、すべてを肯定してくれるような愛のある人間はたくさんいる。
私は人を信じたい。
自分を生きようと葛藤する人の「力」を。
もがきならも、必死に前に進もうとしている人の「可能性」を。
もし、現実に打ちのめされたのなら、また時間を置いて立ち上がればいいのだ。
人生は死ぬまでつづく。立ち上がるかぎり夢はつづく。
焦る必要なんて、一切ない。
「自分じゃ無理だ」と心を痛めたときには、その痛みをしっかりと味わって、自分を抱きしめてやろうじゃないか。
3 夢を諦めるのは、自分が赦せなくなったとき
自分で自分を赦すかぎり、希望は降り注ぐ。
自分で自分を赦すかぎり、夢はつづく。
人が夢を追えなくなるのは、自分で自分を赦せなくなったときだろう。
私自身もかつて、意地悪な現実に直面したとき、
- やっぱり自分はだめかもしれない
- 自分にはできないかもしれない
と、自分の可能性を疑ってしまうことがある。
今でも、悪意のある言葉が届いたときは、やっぱり傷つく。
傷ついたときは、自分を責めて、自分が赦せなくなる。
そんなときは、自然の中で一人になって、心の声に耳を傾ける。
そして「やっぱり、私は間違っていない。大丈夫だ!」という声を聴いて、自分を赦す。
棘を刺されたとき、つい他人の顔色や声ばかり気にしたくなるけれど、心はいつも、本当の答えを知っている。
- 自分にとって、何が一番大切なのか
- どんな生き方をすれば、自分を大切にできるのか
自分は「最後の砦」だと思う。
他人に、どれだけ言われようと、何を言われようと、自分で自分を見捨てないかぎり、可能性は拓く。
自分で自分を赦してやるかぎり、夢はつづく。
もし、自分を赦せずに、責めてしまうのなら、そのときはとことん責めればいい。
気が済むまで責めて、とことん落ち込めばいい。
自分で自分を赦すかぎり、希望は何度でも降り注ぐから。
4 夢を諦めるのは、正直になってから
百歩譲って、正直者がバカを見るとしても、それは見かけ上のことにすぎない。
正直者の心は最高に幸せだぞ!
正直になれた自分は、自分にとって紛れもないヒーローだぞ!
先日、私のテントに、ブログ読者の方が泊まりにきた。
「なぜ生きているのか」を自分に問い、正直に力強く生きている方だった。
彼とは一晩、話をした。
木々の前で鍋を囲み、一緒に寝転がって空を見上げ、まだ陽がのぼる前の、朝のヒンヤリとした新鮮な空気の中で話を聞いた。
なんだろう。
彼を見ていたら、
正直者として生き続けるかぎり人は輝ける
のだと思った。
「正直者が馬鹿を見る」という言葉があるけど、そりゃそうだ。
人が正直になれば、「見かけ上の得」より、「心が喜ぶこと」を追い求めるようになる。
目先のお金や安定より、多少レールを踏み外してでも、本当に自分の心がやりたいと切望することに、人生を燃やしたくなる。
だから、正直者は「損」をするようになっている。
「正直者が馬鹿を見る」のではなく、「正直者はもとから馬鹿」なのだ。
けどそれはあくまで、他者から見た感想に過ぎないのだと思う。
自分の心を偽りなく生きた人間が、死ぬときに悔いを残すなんて、私には想像できない。
貧しかろうが不安定だろうが、心が本当に望むことを大切にできる人間は、幸せだと思う。
勇気をもって人生に空白の時間をつくり、わざわざ山の上まで会いに来てくれた彼との時間から、そんなことを感じる。
正直に生きられる自分は、自分にとって、紛れもないヒーローだ。
「自分にとって、本当に大切なことは何なのか。」
そんなことを問うて、今日も生きよう。
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