森の家づくりは、ついに最後の工程にとりかかり、完成の目途がたった。具体的な構想も設計図もないまま、ひたすら理想に向かってはじめた家づくりであったが、現実には理想にかなうだけの技量が追いつかず、現実に失望しながらも折り合いをつけながらやってきた。
工具といえば、電動ドライバーとノコギリを使うくらいで、整地もてきとう、水平器もなしにやりはじめたものだから、そもそも柱から歪んでいるし、製材しないままの森の木をつかっているから、節目のところが膨らんでいたり、曲がっていたりする。一つ板を打ち込むにしても、木の凸凹の形状にあわせながらやる必要があり、そもそも土台から歪んでいるので、必ず苦戦を強いられ、一筋縄にいかないところがあった。どうしようかと試行錯誤する日々なので、そのうち取り返しのつかない根本的な問題が見つかって、家づくりそのものが中途挫折するんじゃないかと、心のなかでどこか怯えながらを作業していた。
しかし、家が少しずつ形になっていくにつれ、それらは杞憂に終わっていき、完成の目途がたった今日には、完全に消滅したのである。(厳密にはまだ扉が残っているが、部屋にベッドや本棚をつくるとき大きな木を搬入する都合上、ほんとうに最後につくるものとする。)
煩いのなくなった心には、一足先に感動が舞い込んできた。完成間近の家を改めてみて、ほんとうに自分でこれをつくったのか、と嬉しくなったのである。理想には遠く及んでいないものの、世界にただ一つだけの自分の手でつくった家であり、心がときめくには十分すぎるほどである。本当の歓喜は最後の瞬間まで、もう少しお預けになるだろう。いまはまだ、感動に浸るよりも、内装をふくめ、まだまだつくり込んでいかねばならない。
理想は無重力であるが、現実には重力がある。現実に失望するのは、この重力のためである。生身の肉体が、重たすぎるのである。理想主義になりすぎると、生き心地を失うのはその重力を失うせいだ。現実主義になりすぎると、日常が倦怠に染まるのは、その重力のせいだ。
私は長いこと、理想主義のもと無重力で生きてきた。この度、こうして森に家をつくっているとちゃんと重力を感じる。天を仰ぐことを忘れないまま、重力を愛してやりたい。
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