甘いものを食べぬと決めてから、人生がすっかり変わってしまった。長年、散々に心を苦しめ、貶めつづけてきた悲壮の大地は、今や歓喜に取って代われた。悲しみの種、焦燥の種、怒りの種を植えなければ、心はどうして、自発的に自己を苦しめる感情を生めるだろうか。原因と結果の宇宙である。今日、目の前に存在する感情や現実は、一つの例外もなく自分の植えた種が発芽したものにすぎぬ。
無論、外界で不幸に遭遇すれば、悲しくなるのが心というものである。肝心なことは悲しみが生じたときに、一次的な感情を、二次的、三次的なものへと、増長させないことである。ブッタのアーナパーナ瞑想も、感情の生まれるところに集中したではないか。瞑想には力がある。だが、現代は食の慣習があまりにも悲惨であるため、瞑想の力をもってしても、感情の嵐に太刀打ちするのが困難になっている。四六時中、暇あるごとに、自分で悲しみを植えつづけていては、偉大な叡智も力を発揮できぬ。
自己起因性の苦しみは、ちっとも人間を大きくしない。だが、これまでに戦った過去の時間は、一つの無駄もないと感じる。彼らは、重たい鎧を着て走りつづけていたようなものである。重たい鎧のために、目先の穴を飛び越えようとして、躊躇したことがあったかもしれない。穴を越えるために、自己を叱咤激励し、鍛錬を重ねた。鎧の下に筋肉をつけて、幾度も穴を飛び越え、走りつづけたのである。そんな彼らが、鎧を脱いだらどうだろう。心身の軽やかさに、走ることも飛ぶこともずっと容易になるばかりか、嬉しくて、楽しくて仕方がないのである。
小麦、植物油、乳製品、甘いものは、依存性が高い。依存状態のときは、やめられるか不安となり、これらがない人生は楽しくないと感じる。やめてしまえば、一つの未練もなくなってしまうが。これまで散々苦しんできたことと比すれば、やめることの痛みなど無に等しいのである。忍辱はいい。気高い言葉も結構だ。だが、問題を解決する大前提が、食にあることから目を背けては何も始まらない。生まれもった堕落の宿命だ。これに打ち克って、はじめて運命は拓けていくのである。
2025.3.13