金輪際、甘いものは食わぬ。[990/1000]

金輪際、甘いものは食わぬことにした。最後の自己欺瞞と対峙してのことである。心を煩わせるものは甘いものであると、ほんとうは分かっていたはずなのに、甘いものを食いたい一心が、核心を避け続けてきたのである。私自身、一日一食を試みたり、玄米を食うことにしたり、随分と小賢しい真似をしてきた。だが、自己の心を「積極一貫」で在り続けると決めたからには、少しでも支障をきたすものを、これ以上とる必要はあるまい。

 

甘いものを食べると、血糖値が急激に上昇する。インシュリンによって抑えられ、その後、血糖値が急降下する対抗ホルモンとして、コルチゾールやグルカゴンが分泌される。このとき不安感や苛立ち、緊張感をおぼえるのだ。それをかき消すため、さらに甘いものを頬張るのが悪循環の常である。いくら崇高な心であると心に決めても、日夜そのような感情に追われていては、元気であることは難しい。

 

字面だけを眺めていると、禁欲的な生き方に思われるかもしれないが、すべては杞憂である。慣習が完全に取って代わられるとき、それまで手にしていた慣習は完全に忘れられ、もはや思い出されることがないからだ。それが欲されるということは、以前の慣習が残っているからである。毒がすっかり抜けてしまえば、もはや何の努力も必要としない。

一つの慣習を変えるには、新しい慣習をあてがう必要がある。最近私は、炒り玄米というお八つを開発した。この三日間は、甘いものを口にする代わりに、炒り玄米を好きなだけ頬張っているが、甘いものが欲されることは一度もなく、体の調子はすこぶる好い。この度、自己欺瞞を完全に焼き尽くそうと決心できたのは、この数日間の体感に加え、四毒という考えを仕入れたからである。

 

一日一食もやめることにした。お八つを炒り玄米にして、煎餅のように食うようになってからは、何をもって一日一食というのか分からなくなったからである。米を焚けば「食」にカウントされ、炒ればお八つにカウントされるというルールはナンセンスだ。それならば古い縛りは捨ててしまい、腹が減ったら好きなだけ食うスタンスに変更する。口から入れるものすべてが「食」だとカウントするなら、現代人は平均7,8食を毎日とるという話を聞いた。戦前、男は一日五合、女は一日三合の米を平均で食っていたというのだから、米はどれだけ食っても食いすぎることはないだろう。

 

養生のすべては、人間を生き方として貫くためである。強く、気高く、朗らかに生きられる価値に比べれば、甘いものを捨てるくらい取るに足らぬことである。森の家に棲みはじめて数週間、そう思えるくらい魂は賦活した。

 

2025.3.7