★今日生かされているわれわれは、何かしらの「役割」の上に生きている[989/1000]

文明はまた、分業ということで、未開社会から区別されるのでもない。未開社会の生活の中にもやはり、すくなくとも分業の初歩的形態を認めることができるからである。王や魔術師や鍛冶屋や吟唱詩人は、いずれもみな、「専門家」である―もっとも、ヘレニック社会の伝説中の鍛冶師ヘファイストスがびっこであり、同じくヘレニック社会の伝説中の詩人ホメロスがめくらである事実は、未開社会では専門家は変則であり、「万能人」もしくは「なんでも屋」になる資格を欠いた人間に限定されるかたむきのあることを暗示するけれども。

トインビー「歴史の研究」

 

文明であるか、文明とも呼べぬ未開の社会であるかを問わず、人間は分業によって与えられた「役割」をこなすことで生活を営んできた。われわれは誰しもが、社会における「役割」を全うすることで、その対価として賃金を獲得し、結果として社会に生かされている。厳しく言えば、社会における「役割」を放棄した者を、社会は生かしておく義理を持たぬ。希望を込めて言えば、今日、生かされているわれわれは、何かしらの「役割」の上に生きているということになる。役割をそのまま、存在価値と言い換えても差し支えないだろう。

 

仕事とは役割のことであるが、今日はどうもその視点が抜け落ちているように感じる。仕事の対価として賃金を得ているといえば、確かにその通りなのだが、厳密には、社会における「役割」をまっとうしているから、社会に必要とされ生かされているのである。人はだれしも、一人で生きていける者はいないと言うが、前者の視点に偏るほど、生かされているという感覚は失われていく。洞窟おじさんのような、山にこもって一人狩猟採集をする野生的特例を除いて、今日命ある者は、誰しもが役割の上で社会に必要とされ、生かされているのである。

 

自分の役割を認めてみれば、自己存在の輪郭も自ずと認められるようになる。これは先も書いたように、役割が存在価値とイコールだからである。存在価値を認識することが、自己存在を肯定する唯一の方法だ。誤った自由を欲して、仕事を捨てた人間が、かえって心を荒ませてしまうのは存在価値を見失うためである。自己存在を認めることが困難になれば、生きている意味も分からなくなる。

 

役割には大小が存在する。大きな役割を果たす人間は、社会に重要とされるから、より多く生かされる(賃金を得る)。社会を一つの生き物と見立てた場合、これは当然の生存戦略といえる。だが、生命論においては絶対評価であり、役割の大小はさほど問題ではない。いかなる大きさの役割だろうと、その役割を全うすることの価値は真なるものである。いかなる役割も、前向きに、誠実に、ひたむきに果たしていくことが、この世に生かされる価値となり、自己にとっても救いとなる。貴賤はない。どんな仕事であれ、責務を負って果たす姿こそ高貴である。

 

2025.3.6