罪悪感によって人間の道を切り拓く[607/1000]

自分が何も悪いことをしていなくとも、罪悪感をおぼえるときがある。反対に、自分が社会的に悪い存在になろうとも、罪悪感を抱かないときがある。罪の意識は他者に対して抱くものではなく、己自身に抱くものだ。厳密にいえば、己の神に対し抱くものだ。ゆえに、他人が良いと言っても、自分が悪いと思うこともあるし、自分が良いと言っても他人が悪いということもある。ここに自己の善悪が生じる。自己にとって何が善で何が悪であるか。肝心なのは「これが私の善であり、これが私の悪である」と言えることだ。仮に社会的に赦されていても、罪そのものが放免されているわけではない。

 

私は、神が人間に備え付けた罪悪感というものに、人間の道が拓かれると信じている。なぜなら、動物は罪を抱かず、人間のみが罪悪感をおぼえるからである。飯を残さず感謝して食べよというのは、荒ぶる自然に赦されるためであった。

日本人にとっては「罪」は西洋ほど馴染みのない言葉である。どちらかといえば、「責任」という言葉のほうが日本人には合っている。殺めた動物を残さず食べるのは、人間の行いに対し責任を取るからだ。特攻隊の生みの親と呼ばれる大西瀧治郎中将が、玉成放送の翌日に自決したのも、死んでいった英霊と国に対して責任を取ったからである。

 

人間のありとあらゆる罪が赦される世界とは、アダムとイブが禁断の果実を食べる前の楽園であろうか。罪の意識がなくなれば、人間は苦悩から解放される。そうして皆の魂が自由になれたら、どれほど素晴らしいだろう。だが、そんなものはありはしない。罪の意識がなくなるのは、信仰が失われ、人間が人間でなくなるときである。私は忘却に与しない。赦しを得ながら、責任を取りながら、人間をやっていくのだ。

 

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「これが私の善であり、これが私の悪である。」自己の善悪に忠実であることは、信仰を持つことに繋がる。他人の僕にならなくともよいが、己の神に対しては忠実な僕となることだ。仕事や家庭で誰かの僕となるのなら、己の神を通じて僕となることだ。

 

私は社会的に駄目な人間である。定職も妻帯もなければ、根無し草のように生きている。だが、森で隠遁生活をしていた頃、これは私の善だと思った。社会的には落ちぶれたままだ。むしろ、森に引きこもれば真っ当な生活からはいっそう遠のいていく。だが社会的には誤りでも人間的に正しいと思った。逆に、文明生活は社会的には正しくとも、人間的に間違っていることもある。

 

私が導き出した善悪は、力を賞賛することであった。これまでに何度も言葉にしてきたが、これは大事なことなので、何度も言葉にしよう。私は力を善とし、無気力を悪とする。力の原理において人間は赦され、無気力の原理において人間は罪悪感を得る。罪の意識とは、自己と神との関係性を不良に貶めるときに生ずるものだ。それは、神から授かった「力」を蔑ろにすることである。

われわれ人間を人間たらしめる力、生命を生命たらしめる力、そうした力を受け取ること、すなわち感謝することに神との付き合い方を見つけるのである。

 

2024.2.17

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