生活の深みにはまるほど、抜け出すために相応の力が必要になる。例えば、1週間引きこもってしまうと「このままではいけない」という健全なる社会性によって、彼は沼から引き出される。だが、これが半年や1年になると、かつての社会性は完全に力を失い、沈みから抜け出すためには別の動機、それもさらに強力な動機が必要になる。
誠に情けなく不謹慎ではあるが、かつて生活の深みに沈み込み、どうしようもなくなった私は、天変地異にすがるしかなかった。大地震でも大津波でも隕石でも、生活をぶち壊すほどの強大なエネルギーを持つ外的要因にすがるしか、生活の深みから抜け出すことは不可能に思われた。家が朽ち、身を守るあらゆる鎧が滅ぼされ、野生に丸裸に放り出されれば、己の生命力は自然と賦活するだろうと思われたのだ。
こうした絶望的な願いに追い込むほど、沼は人間を無力化していく。最初は心地よくとも、気づいた頃には抜け出せなくなっている。
世の中には、何十年も引きこもっている人間もいる。このままではいけないと分かっていても、深みから抜け出すきっかけを完全に失ってしまった人間はどうしたらいいのだろう。天変地異を待つにも、天変地異はいつ来るのか。もし死ぬまで来なければ、ずっと沼に沈んだままである。
自分でどうにかするしかないと知ったとき、残された力を振り絞って、沼から抜け出そうとする。恐怖を感じながらも、目の前に垂らされる一本の細い糸を掴み、恐怖を振り切って這い上がっていくのである。
私は人間を無気力に沈殿させるあらゆるものに対し、反撃の狼煙をあげる。人間を無気力にすることは、人間の屈辱である。無気力が幸福になる場合もあるが、この場合、幸福よりも尊厳のほうが大事であろう。なぜならば、人間的であるところに、魂は救済されるからだ。
力を欲する人間は、力と無力の二択を迫られる。ここで力の道に進むには、己の力を信じるしかない。たとえ衰弱して、なけなしの力しか残っていなくとも、そのなけなしの力を信じてみるしかない。力とは一つの原理である。たとえ、小さな挑戦だろうと、力の原理を踏みつづけていれば、己の力は増大していくし、たとえ小さなことでも無力の原理を踏みつづけてしまえば、己の力は衰弱していく。
例えるならば、力とは雪だるまのようなものである。転がせば転がすほど、大きくなる。衰弱した人間は、まずは小さな雪玉を転がしてみることだ。騙されたと思って、コーヒーを本気で飲んでみることだ。それだけでも、中々訓練になる。10m級の雪玉を転がすような人間は、きっと「人物」と呼ぶにふさわしいだろう。
私は18日後にインドに旅立つ。私も私の雪玉を転がそう。無力ではなく、力の雪だるまをつくりあげよう。
2024.2.9
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