インドへの旅が決まった。日本からデリーまで片道3万円だ。貧乏旅に慣れ親しんだ人にとっては、妥当な額に思われようが、貧乏旅を知らない人からしてみれば、「そんなに安く行けるのか」と驚く金額であろう。
旅に際して、大半の日本人からしてみれば、金銭の敷居など無いも同然である。それでも、旅に踏み切るために、ひとつの覚悟を要するのは、時間の制約もあろうが、慣れ親しんだ土地を離れ、危険に身を晒すことに対する本能の抵抗が大きいだろう。
大地に吹く心地よい風に、大きな憧れを抱きながら、いざ自分が旅をするとなれば、危険に見合うに相応の動機が欲しくなる。そうして私自身、旅の動機が見つからないまま、旅を決行するに思いあぐねていた。
だが旅に、動機などあってないようなものだ。気まぐれから旅をして、気まぐれに帰ってくることが肯定されてしまうのが、旅なのである。ゆえに、旅に行くか行くまいかを迷うときは、強引に行ってしまうことも有効手である。
私自身についていえば、根が真面目なこともあり、気まぐれの旅が苦手である。これまでの旅も、「ヒッチハイク日本縦断」「東南アジア一周」「オーストラリア横断」などと、明確なスタート地点とゴール地点を定めてきた。これは、私の哲学癖が「何のために生きているのか」を頻りに考えてしまうように、「何のために旅をしているのか」を問うてしまうからだった。そして、問いに答えられないとき、旅が翼を失って、虚無の沼に飲まれてしまう感覚があった。ゆえに、旅にゴールという杭を打ち、泥沼に沈んでしまうことを防ぐ必要があった。
だが、今の私は虚無を克服する術を多少ながら弁えるようになった。今回の旅に、明確なスタートとゴールを定めるかはまだ決めていないが、風の吹くままに、気まぐれに旅してみるのも悪くないなと思っているところがある。
旅にはその年齢にしかできない旅がある。青年期の旅と老年期の旅は、同じ軌跡をたどったとしても、まったく別物になるはずだ。貧しさと未経験によって感動を味わえることあるし、年齢にふさわしい知識や見聞が、旅に深みを与えてくれることもある。私は先月末、齢30になったが、おそらくこのインドの旅が青年期最後の旅になる気がする。もしくは、既に青年期も終わりを迎えているかもしれないが、それならば、それを確かめる旅になるだろう。
放浪と沈鬱を重ね、社会のメインストリームからすっかり足を踏み外してしまった20代を振り返ると、暗く沈んだ気持ちになることもあるが、この旅で私自身の「青年」に終止符を打てるなら、旅の動機としても十分なのかもしれないと一日経って思う。
昨日、沢木耕太郎さんの「深夜特急ノート 旅する力」を読み終えた。特に印象に残った箇所に以下のようなものがある。
旅を描く紀行文に「移動」は必須の条件であるだろう。しかし、「移動」そのものが価値を持つ旅はさほど多くない。大事なのは「移動」によって巻き起こる「風」なのだ。いや、もっと正確に言えば、その「風」を受けて、自分の頬が感じる冷たさや暖かさを描くことなのだ。
せっかく1000日投稿をしているのだ。インドの「風」を読者に送れるよう努力しよう。果たして、これまでの駄文の数々に、いまだ読者がいるものか私には想像することも怖ろしいが、誰かに向けて言葉を書くことは、旅に際して自分と向き合いすぎることとのバランスにもなる。
そういう意味では、ノートと鉛筆があれば、どこに行っても大丈夫である。もしかしたら、誰にも読まれていないかもしれないが、それならば天に向けて、架空の友に向けて言葉を綴ればいいのだ。
読まれなくなっても、私はあなたに向けて書き続けよう。そういう意味で、片思いとは相手の行為に依存しない、永遠に向かう行為である。
2024.2.8
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